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 文句あるなら、この国から出ていけ (政治経済、科学、そして抵抗)


 今日は言わせてもらうといいながら、いつもえらそうに言ってます。

 大学生のとき、ベンチにひとりいて、ボクの心はこんなにさびしいのに公園の少年少女はどうしてあんなに無邪気で元気なんだろう、寂しすぎるぜ。でもどこか大人の気持ち、もう、あの頃には帰れない、ふふふなんて。
 美しい女性のわざとらしい仕草や声はなにげなくいいけど、小さい赤ちゃんの笑顔や、声を聞くとなぜか和んで元気になります。

1.

 どんなに作為的でねつ造されたものでも社会的事件は「事実」であっても、報道されたニュースには著作権はない。引用していけないというのはおかしな話で、そのニュースは創造したんですか。それなら、フィクションとして著作権はあります。
 われわれは文学と芸術の「真実」や、政治社会の「事実」、自然世界の「発見」の違いをはっきり見極める必要があって、ー作家の意図や、政治家らの思惑、創造された自然の真の機能の働きをつかみ、惑わされない眼差しをしっかりつけて成長していこう。

 文学はあるべきである、社会はあるだろう、自然はある。
 詩と散文は、作家のあるべき姿を思い描いて創作します。

 それと違って、今日の出来事ニュースを放送するテレビ局に著作権があるわけもなく、無断で使用しないでくださいというTテレビの発想は滑稽で、事実であっても、もう一度言うけど、ソレは創作したんですか、著作権があるわけもない。「よりますと」で引用は許されるものだろう。それに創作でなくとも、勝った者が歴史をつくり、メディアでも事実を操作するものがある。

 真実はこうあるべきであるとする文学の創作、こうであるだろうと述べる思想家や政治家たちの社会の事実。
 そんな偉大な作家や、思想家と政治家でもビジョンの思い描けないところに、「自然」があり、自然のひとつの産物である人間が想像しても把握できないところに、自然の創造性があった。

 なので
自然は人間の創作の介入できないところにあったので、芸術を創造するとか歴史をつくるというより、ただ自然では「発見する」という言葉が適していた。だから地球は丸いとか、円周率3.14には著作権がないのは当たりまえです。
 芸術の命は永遠であるといわれ、政治家も歴史をつくりたがっても、朽ちていくのは仕方がなく、永遠の自然にかなうはずもなかった。

 それゆえに
未来は現在の連続でも、つかの間の人気や風俗に気をとらわれないで、また社会の事実でも背景やニュース源をきっちり見破るまなざしが必要です。あるべきである、あるだろう、よりも「ある」はたおやかで柔弱そうでも、われわれ人間の「総意」が持たされています。
 作家の創作物は著作権が持たされ、歴史の事実をつくりあげてきた政治家たちには名士という恩恵があっても、いつかは作家の著作権も切れ、名士の政治家も時とともに風化していく運命にもあり、自然の命は偉大な作家や思想家、預言者にありがちな、現在の身のうえを悔やんだり、身を犠牲にしたり殉教して、死後に祭られることを願うことに適していない。

 私はなんていい人なんでしょう、なんてひとり上手はやめよう、生まれたてなのに手指丸めて生気あふれ、ガッツポーズしている赤ちゃんに笑われちゃうぞ。

 自然は、
ただ現在を思いのまま一生けんめいに生きて、あとはおれたち自然にまかせろ、ということをわれわれにあらためて教えてくれる。




2.  政治経済、科学、そして抵抗

 文句あるなら、この国から出ていけ。

 以前なら、もし徳川幕府のやり方に反対ならこの国から出ていってもらうしかなく、そうでなかったら自分たちで新しく幕府をつくるしかなかった。
 また学者には国教の儒教研究に奉仕してもらうしかなく、その他は邪教として廃されて、武士のエリートたちはこぞって「安心」して得意にもなって、学問の競争をしていたものだった。

 すべからくお上が白といったら黒でも白でしかないのは、国民の義務であり、政治の権力者に従うのが国民の務めで、国のあり方だった。
 そういうわけで時代が江戸時代から現代に変わっても、長らく植え付けられた主従関係の封建的感情はぬぐいがたく、
現在でも米国に戦争で負けてすっかりインポテンツになってしまった日本首脳は、もちろんですともあなたのいう通りです、と感心のしきりで、
何も考えないで正義のお言葉である自由主義と資本主義を国是にしました。以前の江戸幕府の儒教と封建制度みたいに、どこも悪いところはありませんと信じきっていました。

 政治家と国民はあわせ鏡。
政治家同様に国民も進んでアメリカ追従して、アメリカ文化のスポーツとポップな娯楽音楽、文学がカッコよく見えるのは、じっさいのところ江戸時代と同じように「暴力装置」からくる権力の強さの背景から来ていました。
 そんな強い者に憧れる子供や「従順で無事な生活」を求める正直な庶民には、いつの時代も支持される光景でした。

 だから古代ローマ帝国は繁栄のためには常に戦争して、現在のアメリカの繁栄も常に戦争に首をつっこみ、第二次世界大戦後のいたるところで紛争やって、顔を出さなくても平和を説きながら、利害関係でウクライナやイスラエルに表や裏になって、こっそりでもなく武器を渡し、暗躍していつも戦争をやっていた。戦争して暴力を誇示し、初めて存在をアピールできるのだった。
 まるでヤクザも顔負けだった。ヤクザは怖い顔して悪いことやるけど、笑顔を振りまいて柔和に紳士づらして悪いことをやるのは1492年のコロンブス以来、世界の途上国での残酷なやり方はお馴染みのスタイルです。植民地ではこの上ない残酷な振る舞いをしても、本国の議会ではジェントルマンでヒーロー扱いされ、誰からも称賛されるのでした。


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 でも悪党の上にはもっと悪党がいて、やがて現地の植民地での悪行が非難され、かつてのインド植民地でさんざん卑怯な手で征圧しヒーローになったイギリスのクライヴも、屠殺者の異名を持つラテンアメリカで残虐に活躍したピサロもコルテスも、本国の議会で非難され、最後は惨めな気持ちで終えました。
 けっきょく、自分たちは「安全で楽な場所」にいて、そんなことをしていいんですか、と愛とヒューマニズムを説く議員たちの国家に、栄誉と利益が持たされたのです。

 さらにもっと悪党といわれる、いい時ばかりの「国民」という存在がいて、かつてのヒーローを非難し議員たちをけしかけ、最後には自分たちが優位に立ち、世界の中でマウントを取っていたい国民がいた。

 そういうわけで
いまも、アメリカや中国の政治家たちは暗黙に国民のあと押し応援を受け、何かといっては各国に戦争や紛争を押しつけ、政治家と同じく「ジャーナリスト」や「国民」のダブルスタンダードな愛とヒューマニズムも絡ませながら、残酷な戦争を尻目にそんなことしていいんですかと言いつつ、ちゃちゃっとやりなよ、とつぶやいていました。
 われわれ国民は、世界で英語だけ、中国語だけで通用して世界の観光もでき、偉そうにふりまわりたいだけなんだよ。お願いします、政治家の皆さん。もっとも、口に出して言えないけどね。 /


 ほんと、ケンカができなくなったら終わりだ、とは組織を維持する世界では常識で、平和と繁栄はその後からやってくるというのも、歴史を学んでいる大人なら誰でもが知っていた。

 そんな日本政府や健全な考えをお持ちの日本国民が、大国にヘラヘラしているようで、共産主義国みたいに素直な皆さんのようでも、また以前の江戸幕府やいまのアメリカ政府から「かわいい奴」と言われても、われわれ日本人たちはこれでいいんだとケッコウ幸せでした。

 そういった国民の傲慢さのいっぽうで、長年「植え付けられた」封建的奴隷根性や、強い者に従う主従関係の封建的思考は国家ばかりでなく、いま言ったように国民にも素直に受け入れらて、卑屈さも合わせ持っていた。賢いことを言っても、どこか愚かで、それでいてマゾっ気みたいに卑屈でも、サディスティックな傲慢さもあった。オカマみたいにと言ったら怒られそうだけど、弱くても生きていくために、自然に生まれつき備わった両面性の知恵の産物だった。
「頭」では自由で競争がある資本主義社会がいいと言いながら、いっぽうで共産国みたいな公務員に「身」を寄せたがっていた。

 なので
米国の舎弟でなく子分である日本国では、米国が資本主義で行くといったら、即座に「もちろんです」といい、そして日本政府のお上が資本主義で行くぞといったら、「もちろんですとも」と国民も疑う余地なく従い、教師もありがたく安心して、教室で子供たちに国民の正義を教えるのでした。

 でも、
とここで言いたい、
社会通念と自然のあり方はちがうんだぞ。

 たとえ偉人が作りあげた社会通念は、いましばらく通用しても永遠に続くわけもなく、遠い昔から生まれ、つちかってきた人間の自然な生き方に対して、いつまでも覆いつくすことは決してできないだろう。
 上からの政治的な圧力や、何かと導いていきたがる教育のアンチテーゼとして、芸術や文学には単一な思考ではない、さまざまな感情や意志があふれ出て、多く読みとられ、上からの教えに抵抗、レジスタンスがこみ上げてくるのも素直な気持ちだった。

 だからと言って
真実は「こうあるべきだ」と説きたがり、ナイーブな感受性をもつ作家と呼んでねといっても、じっさいは気弱な小心者が多い芸術や文学の関係者。世の中や社会の事実は、「こういうもんさ」と斜視に構えたがる報道関係者のみなさん。それにまた「新しい人間」を発見した、という自然科学の科学者みたいな大げさなものでもなかった。

 思えば、歴史の最初に、人間社会は政治経済の生活に追われ、次に科学の恩恵を受けて便利になってもいつのまにか逆に便利に使われて、最後の段階になって初めてわれわれは「抵抗」する自由を勝ち取り、ゴリラやロボットから人間となった。


(大学に入って間もない頃、先輩の熱いアジテートな討論を、初めはケッと無視していた。でもなんだか最近、なつかしく思いだされ、先輩の気持ちがよみあがってきます)

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