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 可愛がってほしいのに


「絵はね、上手に描こうと思ったらダメ、生き生きとして生命溢れるように、大胆に描くことが大事なんだよ」
「もうこの絵はできあがっているの」

「まだだよ、ホラ少しばかり表面が濡れているだろう」
「でも乾いたらパサパサして、潤いなく死んじゃうよ」

1. 「かれら」

 かれらは愛を説いても、
暴力の後にやってくることを知っていたし、幸福の精神性を語っても、物質的金銭の中に幸福はあると信じていた。

 かれらはいままでさんざん黒人を奴隷扱いにして苦役労働させ、いまでもどこかに黒人に対して差別意識があるのに対して、女性にはどこか表面上はもてなし、前に立てているようなレディ優先を見せているようでも、じっさいは心の中ではどこか女性を家畜扱いしているフシが見え隠れしていた。そんな女性たちよりも、黒人の方がいくぶんマシだなと、かれらは密かに感じていた。 
 以前の大統領予備選でヒラリー・クリントンの優位をひる返して、オバマが民主党の大統領候補指名になったのは単なる偶然ではなかった、いざというときには根深いものが存在していた。まだ歴史が浅く、男たちの暴力でつくりあげて来たこの国では、まだ女性が上に立つのを許せなかったのかな。それはわからない。

 ふだんは何かとソデにされていても、いざとなったら天照大御神あまてらすおおみかみや卑弥呼の下でまとまるような、頼りになる日本の奥さんたちと、奥さんに隠れて浮気のやりたい放題で、子供の神を作りまくるゼウスを先祖を持ち、どうしようもなくて、なぜか当てにされない西欧の奥さまたち。
 ふと、時の権力者の貴族や幕府の将軍、総理大臣が天皇をソデにしても、いざとなったら時代の変わり目になれば、天皇のにしき御旗みはたの下につどい、また戦争で焼け野原になって生活がすさんでも、天皇がいるだけで日本人のアイデンティティが持たされ、日本人の心がひとつになって立ちあがっていく、そんな日本人の精神気質が思いだされてくる。


 それに
かれらによる国家体制のじっさいは、
かれらが説く美しい「正義」やいい時ばかりの「人権」よりも先立ち、政治体制が壊れたら正義も人権もあったものじゃない、と子供ではないので知っていました。
 だから、かつてヨーロッパの白人たちがキリスト教的愛と民主主義を掲げながら、残酷な植民地政策をするのは何も不思議でなかったし、いまも口あたりのいいフレーズを唱えながら、自分たちの都合で負けない戦争をやるときは、被害が出る国内よりも、「国外の」相手国でやるように心がけるのもあたりまえでした。

2. 可愛いがられて捨てられて

 ところで話題は変わって、
ファーストフードは、安くて手軽に早く食べれるところに便利さがあります。それにはチェーンの店舗が多いので具材も、一軒家より多く仕入れができて安い値段で提供できます。そのいっぽうで、店舗も多いのか従業員も手薄で、料理人も新人かアルバイトばかり。手軽さも結構だけど、どうしてもインスタント食品にケの生えたような食べ物になるのもしかたなく、安いからって、なんだかオレたちはエサを食べている家畜か、と悲しくなります。
 中には安くて手軽に早くおいしい物を提供したいという経営者も初期の頃はいたらしいけど、昨今は料理よりもいかに金儲けができるか、そのことばかりで、ネクタイをつけたスーツ姿の経営者しか浮かんでこない。われわれをジャンクフードやハンバーガーばかり食べて、肥満になっているアメリカ人みたいにしたいんだろうか。美味しいより食べれればいいとか。ジャンク(junk)、文字どおりガラクタにしたい。

 じつは意図的にインスタント食品みたいに作って、別に美味しく作る必要はないらしい。会社の店の味を食べに来るのであって、変に味を変えて美味しく作る必要はない、単一でも、同じ味の大量生産的なものでもいいと考えている経営者もいて、ほんとわれわれを餌付けしようとしているらしい。
 以前、職場の前にラーメン屋ができ、近くで便利なので、一度入ってみた。できあがるのを待ってて、なんだか違和感があった。調理人がときおりチラチラ、壁に貼ってある紙を見ている。なんだろう、ふと見てみるとそこにはラーメンをつくる手順が載っていた。それから数ヶ月もしない内に、ラーメン屋は閉店していた。むかし、うどんや蕎麦屋でも暖簾分けというのがあった、なんだか最近では違う意味のことらしい。

 別に、食べ物ことだけを言っているわけでもなかった。中味が伴わないので、表面上、人目がいいとか体裁の良さがどうしても必要になるのさ。音楽、漫画、テーマパーク、それに文学など、変にわれわれを幼稚化させ、商売経営者の顔ばかりが度アップであらわれて、われわれを肥満化した家畜にもして、最後にはどうも食いものにしたいらしい。


3. 語ルシス

 美術は目で、音楽は耳で鑑賞するけど、文学はなんだろう。よく詩人は酒を愛し、小説家は食通な人が多い感じだ。別に贅沢なものを食しなくても、身近な食べ物にこそ味わいがあり、さっき出たうどんや蕎麦にも食通を感じていた池波正太郎の文章の妙は、こんなところから来ていたのだろうか。やはり文学は口で味わうもの。口で鑑賞するものだろうか。
 話は少し変わるけど、口で味わうといえばフランスの文学雑誌に「リール(LIRE、読む)」というのがあります。最後のページに最近のベストセラーのランキングが載っていて、よく参考にしていたものだった。外国の書店でマガジーヌ・リテレール( magazine littéraire )とよく並んで置いてあった。いまでも、マガジーヌ・リテレールは日本の洋書店で見かけるけど、リールは東京の紀伊国屋書店では見かけない。他に東京のフランス語書店には、紀伊国屋書店より規模が小さい数店舗あるけど、置いてあるんだろうか。家から電車の乗り継ぎなどの不便さもあって、なかなか行けません。


 ところでさきほど、ファーストフードが軒並みはやって、他の個人店をおびやかしているのを非難してしまった。あれは料理でない、マニュアル通りの調理だとも言った。じつは一概にそうとも言えなかった。

 ボクの家から、ニ方向の近いところにふたつの中華屋さんがある。左手の駅近くに一軒、まっすぐな道の方にもう一軒。それもチェーン店。ふだんなら、気が乗らないところ。

 気が進まないまま、偶然に入った左手の駅近くの中華屋。ラーメン食べてびっくり、とてもおいしい。しかもチェーン店なので安い。九州生まれか上京するまで、同じ麺のうどんは食べても、ほとんどラーメン屋に行かなかった。
 いらっしゃい、ハチマキしているような熱い店員のいる店とか高いラーメンのところはそれなりにうまいけど、この店だけなのかな。確かめに同じチェーンの他の店に入ってみたら、びっくり。見た目も同じで、麺や具材もまったく同じなのに平凡な味だった、よほどのことがない限り食べようとは思わなかった。ヘー、そうなんだ。

 それから、家からまっすぐな道にも中華屋さん。何度目かの時にふと気づいた、ご飯のおいしさ。後日もう一度訪れて食べても、おいしい。他のご飯屋で、食べるご飯とまるっきり違うおいしさ。何が違うんだろう。しかも有名店と違って、どこにもあるチェーン店のご飯。これもチェーン店の他の店舗を確かめようにも、店舗が少ないのでわからない。ふと食べていて、厨房に行き聞いてみたくなった。この米はどこの産ですか、誰がご飯を炊いているんですか。
 ところで以前、これに似たことでテレビの夕方ニュースに、繁盛している店のご飯炊きの名人が紹介されていた。木材のまきで炊くことにこだわっていた。
「わたしは料理がヘタなので、ご飯だけはおいしいものを作ろうとがんばりました」
 そう語る大阪のオヤジさんは、朝も昼も夜もおいしいご飯を炊くことに熱中して、水加減、火加減など油断を怠りなく努めているという。

 そんな感じでラーメンだけがおいしくて他の品はイマイチの中華店、ご飯がおいしく餃子の他はイマフタツの中華屋さん。安いラーメンの単品だけ、あるいはご飯だけ食べるのも気がひけるので、注文するときは後づけで他の品をつけていました。
 ラーメンがおいしい店とご飯がおいしい店。ふたつとも、厨房をちらっと見れば、料理人といわれる職人でもなさそうで若く、もしかしてアルバイトでもあるようでした。

 文章は、誰が書いても同じようなものではない。また料理も出される具材が同じで、たとえマニュアルどおり作ったとしても、作家の文章力の妙と同じで、最後には料理人の技術やセンスがあらためて必要だとわかりましたね。
 AIが文学を創造したら人間は奴隷であり、機械が料理し始めたら人間は家畜だ。

食いもんになっているなんて知らなかったわ

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