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 梁の武帝、河中の水は東に向かって流る


 情熱には明晰さを伴わなければならない

 すべての創造性と行動を願う者には、情熱と引き換えに挫折と落胆が伴う。ラテンアメリカ詩人オクタビオ・パスも例外ではなかった。でもチャンスは常にピンチの後にやってきて、思わない亡命作家や第二次大戦の戦火から逃れてきたフランスのシュルレアリストらの出会いから、さまざまな別世界の啓示を受けた。
「とりわけ、批判的思考の意味するところについてよきラテンアメリカの人間として、私は反抗とか、憤りとかいったものは知っていたが、批判は知らなかった。私はかれらのお陰で、情熱は明晰でなければならないことを知った」
   O.パス『くもり空』

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 梁の武帝(464ー549)、名は蕭衍しょうえん

 中国の詩の中心は唐にあり、宋も入れて、漢詩の黄金期は唐宋時代にあるとは誰にでも認められている、じっさい読んでいて、とても華麗です。
でも詩人のほとんどがペーパー試験の科挙で登第したエリートばかり。
いまでいう国会で登場するエリート官僚か、官庁勤めする役人ばかりで、政権争いや宮仕えで巻き込まれて、嘆き悲しむ歌ばかり。
同じ境遇でエリート出身の学者や作家がしきりに応援したがるのも、よくわかります。

 その中で異彩を放つ李白や杜甫が唯一エリート官僚でなかったのは偶然でなく、日本でもあまたのエリート大学出の詩人がいても、詩人らしい詩人はあまりいなくて、戦前では萩原朔太郎や戦後の谷川俊太郎がエリート出身でないことでもわかり、単なる偶然ではなかった。

 小説みたいな散文は勉強して書けても、詩はそうはいかない。
古代のディオゲネス・ラエルティオスは『ギリシア哲学者列伝』の中で、登場する著者を紹介するなかで、こんなふうにうまく語っている。
“ 彼は数十の本を書いた、でも詩は書けなかった、なぜなら詩は天分だからだ ”

 唐宋の詩はたしかに味わいのいいのがあります、でも人物に少しばかりおもしろみが欠けます。

 その反面、唐詩以前の詩はいくぶん完成されていない素朴な詩であっても、歌っている人物にはとてもおもしろみがあります。

 梁の武帝は一代で国を創立した武将で、「三国時代」後の南朝に政治的安定をもたらした。
曹操に似て、文武両道であった。
次の歌は皇帝には似合わない、民間の淡くはかない恋心を歌って、素朴さが伝わってきます。


 河中かちゅうの水の歌   梁の武帝 川合康三訳

河中かちゅうの水は東に向かって流る
洛陽の女児じょじ 名は莫愁ばくしゅう
莫愁  十三にしてあやぎぬ
十四にして桑をる  南陌なんぱくほとり
十五にしてして盧郎ろろうよめと為り
十六にしてを生む  あざな阿侯あこう
盧家ろか蘭室らんしつ  かつらもてはり
中に有り  鬱金うこん  蘇合そごうこう

頭上とうじょう金釵きんさ 十二行じゅうにぎょう
足下そっか糸履しり 五文章ごぶんしょう
珊瑚さんご挂鏡けいきょう  らんとして光を生じ
平頭へいとう奴子どし 履箱りしょうささ
人生の富貴ふうき  何の望む所ぞ
うらむらくはつと東家とうかおうとつがざりしを


 河の水のうた

河の水は東に向かって流れる。
洛陽のむすめ、名前は莫愁。
莫愁は十三ではたを織ることを覚え、
十四で南のあぜで桑を摘む。
十五で嫁いでさんの嫁となり、
十六で阿侯という名の子を産んだ。
盧家のらん香る部屋は桂の木をはりに使い、
中では鬱金うこん蘇合そごうの香を焚く。

頭には十二列もの金のかんざし。
足もとには五色の刺繍を施した履き物。
壁に掛けた珊瑚飾りの鏡はきらきらと、光り輝き、
無帽のしもべが靴の箱を捧げる。
人生の富貴など何で望みましょう。
悔やむのは先に東隣りの王さんに嫁がなかったこと。



 * ちなみにこの梁の武帝のとき、南インドからひとりの奇妙な僧が中国の地に降りたった。ひとつの思想を携えていた男は武帝に面会したものの、縁がないことを知り、その場を離れ、少林寺に赴き、その地で修行を始めた。面会で別れたあとに、達磨と呼ばれる高僧だとわかって、大いに武帝は悔やんだといわれている。
この達磨から六代目に衣鉢いはつを受け継いだのが中国禅宗の祖である慧能えのうで、仏教といえば念仏宗教と禅宗といわれるようになった。

 日本でも鎌倉時代から広く取り入れられた禅宗は、大衆の念仏とちがって、知識人の武士の間に広まり、現代まで、日本人の思想のみならず文学や芸術の根幹をつくっていった。仏教と儒教、老荘思想を合わせ持った禅宗なしには日本文化を語れない、むしろ日本人の精神そのものである。

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