わたしと弟のちいさな夜
『お姉ちゃん、話しかけていい?』
「ん?なに?」
なんてこともない満月の夜。
私たちは家族で中華料理を食べに出かけ、それぞれお風呂に入り、なんとはなしにリビングに集まり各自パソコンで思い思いのことをしていた。
『好きなことで稼げたらいいよね。
ほら、僕が好きな海外鉄道史の原典翻訳とかで、食べていけるくらいのお金を稼げればさ。』
といいつつ、開いているのは外国のニッチな研究者の英語論文。
彼の大学での専攻とはあんまり関係がない。
邦語文献はほぼ皆無で仕方なく英語でリサーチをはじめたそうな。
「そうねえ。弟くんは英語できるし、ディープな趣味に生きてるからね。ニッチな需要はありそう。自費出版とか?」
弟は海外の高校を卒業しているので、英語力は申し分ない。
『いや。同人誌レベルくらいかなあ。まあ、最初はnoteとかTwitterとかで無料公開だと思うけど。』
彼は中学時代に鉄道オタクの輪をTwitterで広げて、かなりの相互フォロー数を誇る。大学に入ってから、よくその人たちと旅行してはオタ活を楽しんでいる。
「いいんじゃない? いきなりドンと稼ぐのは難しいもんね。」
『社会人になっても論文読み漁るの、続けられるかな』
その言葉は重く私に突き刺さった。
社会人になってからというもの、日々の仕事と生活に追われ、ろくに論文を読む時間なんて取れていない。
大学時代は、手当たり次第に資料や論文を漁っていたというのに。やはり、十分な時間と気力と体力が揃わないと、好きなことでも続けるのは至難の業だ。
あんなに好きだったのに。どんどん霞んで見えなくなっていってしまう。
「難しいかもねえ….。」
思わず、本音が溢れた。
姉らしく、希望に満ち溢れる未来を、虚構でも描いてあげられたら。
『だよねー。』
でも、きっと大丈夫。淡々と答えながらも落胆した様子はない。
彼は今を全力で生きているから。終わり来る無限の自由をわかっているからこそ。
『お姉ちゃん、この略語なに意味してるかわかる?』
「わっかんないよー。専門外です….」
『distribute? vだっけbだっけ?』
「b。よく見るけど意味出てこないわあ」
『neutral?』
「中立のーとか」
こんな優しく穏やかな夜は永遠じゃない。
毎日当たり前のように思っていたけど、普段は離れて暮らすようになったからこそ、大切にしなくちゃいけないと気づいた。
だから。時間の流れにせめてもの抗いを。
どんなちいさな夜のひとコマも記憶に刻み込んで生きていく。
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