見出し画像

①「ロッキー・バルボア」と「金田一耕助」

1976年のヒーロー

 同一役者が同一キャラクターを30年以上演じている場合、ここではそれを「キャラエイジング」と呼ぶ。30年間連続して演じる必要はない。2つの作品しかなく、それがたまたま30年以上の間を経て公開された(例えば『ブレードランナー』のようなケース)場合もありだと考えている。

 その最初の例として『ロッキー』シリーズのロッキー・バルボア(演じるはシルベスター・スタローン)と、『犬神家の一族』にはじまる金田一耕助シリーズ(ここでは主に市川崑監督×石坂浩二主演版を取り上げる)について考えてみたい。

 この2作品にはまったく関連性はないのだが、不思議な共通項がいくつかある。

①どちらも1976年に開始して、30年後の2006年に6作品目で終わっている
②『ロッキー』の場合は翌年の『スター・ウォーズ』にはじまるSF映画ブーム、『犬神家の一族』の場合は翌年の『宇宙戦艦ヤマト』にはじまるアニメ映画ブームと、70年代の後半を象徴する動きの直前に公開されている
③『ロッキー』ではビル・コンティ、『犬神家の一族』では大野雄二による映画音楽史に残るテーマ曲が作曲されている

 一方で、その後の展開を考えると、この2つのシリーズには明らかな違いもある。まずは簡単に双方のキャラクター歴を確認してみよう。

画像1

〔ロッキー〕

・1976年『ロッキー』全米公開(1977年日本公開)
 北米興行成績年間第1位。アカデミー作品賞・監督賞受賞(スタローンも脚本賞にノミネート)。無名のボクサーがヘビー級チャンピオンへの挑戦権を得る。必ずしも主人公が勝利するかではなく、最後まで闘えるのかに焦点を当てているのが画期的だった。

・(1977年『スター・ウォーズ』公開)
 北米興行成績年間第1位。

・1979年『ロッキー2』
 スタローン自身による監督作品(『パラダイス・アレイ』につづく監督2作目)。チャンピオン・アポロ・クリードに再挑戦する。今度はロッキー自身がチャンピオンになれるかどうかが焦点になる。

・1982年『ロッキー3』
 80年代のスタローン黄金期の端緒となる作品(監督兼任)。同年は『ランボー』第1作も公開された。チャンピオン・ロッキーを倒した相手に再挑戦する。アポロ・クリードがそれをサポートする展開に。

・1985年『ロッキー4 炎の友情』
 スタローン主演の最大ヒット作『ランボー/怒り脱出』の後に公開され、『クリード2』にもつながる作品(監督兼任)。アポロを破った「ソ連」のボクサーに、ロッキーがリベンジを挑む。

・1990年『ロッキー5 最後のドラマ』
 第1作を監督したジョン・G・アヴィルドセンが再登板。邦題には「最後のドラマ」のサブタイトルがついた。ロッキーの息子役として実の息子セイジが出演。ロッキーはもうリングに上がらず、彼の後継者や息子との葛藤がテーマになる。

・2006年『ロッキー・ザ・ファイナル』
 前作から一部設定を変更(ライセンスの再取得が可能になった)した、本当に「最後」の作品(監督兼任)。「必ずしも主人公が勝利するかではなく、最後まで闘えるのかに焦点を当てる」という1作目のモチーフを見事に再現している。

・2015年『クリード チャンプを継ぐ男』
 ライアン・クーグラー監督によって作られた「スピンオフ」というにはあまりにも正統な続編的作品。ロッキーの宿敵かつ盟友だったアポロ・クリードの「息子」アドニスの話が成立するギリギリのタイミングで製作された。アドニス視点で見れば『ロッキー1』の世代交代版だが、同時にロッキー視点で見れば『ロッキー3』の意趣返しであり、『ロッキー5』の語り直しにもなっている。

・2018年『クリード2 炎の宿敵』
『クリード』の続編。今回はアドニス版の『ロッキー2』であり、同時に『ロッキー4』の後日談にもなっている。『クリード』は2作品で『ロッキー』シリーズの主要なテーマをほぼ語り直したことになる。

〔金田一耕助〕

※石坂浩二版以前にも片岡千恵蔵などの主演で映画化されているが、ここでは触れない。

・1976年『犬神家の一族』日本公開
 日本興行成績年間4位。角川春樹事務所製作。原作長編5作目。「犬神家」の遺産相続に絡んで、孫の男性3人が「斧《よき》・琴・菊」の3種の家宝になぞらえて殺される。

・(1977年『宇宙戦艦ヤマト』公開)

・1977年『悪魔の手毬唄』『獄門島』
 東宝製作によって石坂浩二版がシリーズ化(ただし、「時間軸」は連続していないと考えられている。つまり、石坂版は個々の作品の世界が「平行宇宙」なのだ)される。
 原作長編は1946年~1960年にかけて集中して書かれている。『獄門島』は2作目で最初期のもの、『悪魔の手毬唄』は比較的後期のものである。前者は芭蕉の俳句、後者は架空の手毬唄の内容に見立てて3人の女性が殺される。先に『悪魔の手毬唄』が映画化されたのは、その分内容に「円熟」が感じられたからかもしれない。石坂版シリーズの最高傑作といわれることもある。一方の『獄門島』は原作とは犯人を変えている。

・1978年『女王蜂』
 京都を舞台にした華やかさがあり、だいぶタッチが違うが、今回は3人の男性婚約者が殺される。過去3作品で犯人役を演じた俳優が全員出演するという仕掛けもあり、石坂版シリーズの原作のチョイスという観点からは、その集大成であるともいえる。

・1979年『病院坂の首縊りの家』
「金田一耕助最後の事件」(当時の「最新作」)の映画化で、石坂版の実質的な最終作。作中で20年が経過する大長編ということもあり、大胆な脚色が施されている。

・(1981年『悪霊島』)
 横溝正史最後の作品の映画化。鹿賀丈史が主演した角川映画。

・(1996年『八つ墓村』)
 豊川悦司主演、市川崑監督で製作された作品。

・2006年『犬神家の一族』リメイク版
 石坂浩二主演、市川崑監督作品(遺作)。リメイクに当たって「見立て」の方法を大幅に変えることも検討されたようだが、結果的には第1作のシナリオをほぼ忠実に再現した内容になった。個人的意見としては、1979年版の『病院坂の首縊りの家』を「入れ子構造」にした完全版を作るという手もあったと思うが、当然そうはならず、リメイク版という位置づけになった。とはいえ、もともと個々の作品の世界が「平行宇宙」として存在した石坂版に相応しい完結の仕方だったのかもしれない。

※参考としてテレビドラマとして製作された『犬神家の一族』を挙げる。(『犬神家の一族』は『八つ墓村』と並んで映像化回数がもっとも多い)

・1977年 古谷一行版
 映画版『悪魔の手毬唄』の公開日にはじまった「横溝正史シリーズ」以降、古谷一行は2005年まで28年間に渡って金田一耕助を演じている。

・1990年 中井貴一版
 長坂秀佳脚本による単発の作品。石坂版以降主流になった「和装」スタイルを踏襲していない。

・1994年 片岡鶴太郎版
 片岡鶴太郎版シリーズは全部で9作品あり、その5作目。

・2004年 稲垣吾郎版
 稲垣吾郎版シリーズは全部で5作品あり、その1作目。

・2018年 加藤シゲアキ版
 現状では単発作品だが、シリーズ化の可能性もある。

・(2020年 BSプレミアム版?)
 2017年の『獄門島』以降、事件が起きた年代順にドラマ化されているので可能性が高い。金田一耕助役は順当にいけば吉岡秀隆になる。

「複製可能性」と「複数原点性」

 先に述べた「2つのシリーズの明らかな違い」の、もっとも顕著なものは「複製可能性」である。

 シルベスター・スタローン以外の役者が「ロッキー・バルボア」を演じることは、過去においても、おそらく未来においてもありえない。仮に今後『クリード3』が製作されるとして、それ以前にスタローンが亡くなるようなことがあれば、製作中止か、あるいは劇中でロッキーも亡くなったことになるのではないか?

「主役」としてのロッキーは『ザ・ファイナル』で役割を終えた。だが、アポロの息子という新たな「主役」が創造されたことで、重要な「脇役」としての役目が再度付与されることになり、延命したのである。

 ロッキーのように演者の「老い」が絶対的に反映される「複製不可」タイプのキャラクターが長寿でいられる一つの方法論は「次世代」を生み出すことである。

 これは『男はつらいよ』シリーズの終盤で、甥の「満男」がストーリーの一翼を担うようになったことにも似ている。一方でそうした仕掛けを持たない『刑事コロンボ』は35年間69作品つづいても、ピーター・フォークの死去とともに幕を下ろさざるを得なかった。

 では、「金田一耕助」はどうかというと、石坂浩二版は3年間・5作品であっさり終わってしまっている。ところがこちらは「複製可能」タイプである。だから、早くも1977年には古谷一行版がドラマとして製作され、さらに3人の俳優によって『犬神家の一族』が映像化された上に、石坂浩二自身によって30年後にリメイクがされる奇妙な現象が起こってもさほど違和感がない。

 現状、鑑賞可能な5つのバージョンの『犬神家の一族』を、並行して観るという体験ができるのは、ほかには「シェークスピア作品」ぐらいしか思いつかない。

 さらに「金田一耕助」シリーズの特徴として「ロッキー」と大きく異なるのは、「複数原点性」だ。ここでいう「原点」というのは、シリーズ継続に当たって製作側が「立ち返るべきポイント」のことだ。

 具体的には「横溝正史による原作」と「市川崑監督による映画」の2つが「複数原点」として存在する。対する「ロッキー」は、原作も映画も俳優も、シルベスター・スタローンという一人の人間が「単数原点」になっている。そこが大きく違うのだ。

『犬神家の一族』に話を戻せば、毎回新しい「観客」を獲得するというテーマはあるにしても、これだけ内容が有名な作品となると、「犯人は誰か?」よりも「今度はどう演出されるか?」を楽しむ観方が強くなってくる。

 1976年版でさえ、主要な3つの殺人のうち1つのシチュエーションが変更されているから、次はそれをなぞるのか、あるいは原作通りにやるのかといった興味が生れるし、1990年の中井貴一版ドラマでは、すっかりアイコン化した金田一の「和装」をあえて外したり、人間関係を大きく変えたりもしている。『獄門島』で行われたように、いつかは犯人が違うバージョンの『犬神家の一族』が製作される可能性だってありうるわけだ。

①「複製可能性」の有無
②「複数原点性」の有無

「キャラエイジング」を考えていく上で重要なこの2点は、まずは「ロッキー・バルボア」と「金田一耕助」のキャラクター性の差異として見出せるのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?