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「越境文学」と私

自分の母国を離れて海外に住む移民という立場になったためか、越境文学に興味がある。国境を越えて活躍する人が、どのようなメンタリティで生き抜いているのか知りたいのだ。

海外暮らしの苦労というのは語り尽くされているように思うけれども、ドイツ、それもフランクフルトという街に17年住んで気がついたことは、当たり前の事ではあるのだが、大変なのは自分だけではない。という事。いや寧ろ、自分だけが大変だと思っていたのが大間違いであったという事実である。

そもそも「移民」の定義とは何なのか。日本の国連広報センターの記述を記載させてもらうと、移民とは「国際移民の正式な法的定義はありませんが、多くの専門家は、移住の理由や法的地位に関係なく、定住国を変更した人々を国際移民とみなすことに同意しています。3カ月から12カ月間の移動を短期的または一時的移住、1年以上にわたる居住国の変更を長期的または恒久移住と呼んで区別するのが一般的です。」とのこと。(https://www.unic.or.jp/news_press/features_backgrounders/22174/ )

「移民」というと「難民」のイメージがあるが、「移民」と「難民」とはその定義が違う。「難民」は、同じく国連広報センターの記述を参考にすると「迫害のおそれ、紛争、暴力の蔓延など、公共の秩序を著しく混乱させることによって、国際的な保護の必要性を生じさせる状況を理由に、出身国を逃れた人々を指」す。

自分は移民ではないと感じている人もいるかもしれないが、上記の「移民」の定義をもとにすると、今や「移民」の経験をしたことがある人の数は、数十年前と比べて遥かに増えていることだろう。

海外生活を始めた時には幾つかの段階があった様に思う。「高揚期」とでもいうのか、住み始めた土地に馴染もうと一生懸命努力している時期。そして「停滞期」どんなに努力しても叶わぬことや馴染めぬこと、社会の中の中枢にはなりえないと感じて孤独を感じたり、馴染むことを諦めようとする時期。そして何時の間にか、それぞれの人が、それぞれの立場で適応したり、帰国したり、適応せぬまま在住する(殆どの人がこの状態にあると思う)時期。

私などは17年在住していてもいつも停滞している様な気がしてしまうが、それでも随分移住先に馴染んで居る。その時に、ふと気づいたのだ。実は生き生きと活躍している、そのほとんどの人が実はドイツ人ではなく、「移民」の人であることに。しかも私自身よりよっぽど過酷な条件で色々と成し遂げている人が沢山いる。

フランクフルトという土地柄もあるのだが、会社の同僚も生粋のドイツ人という人は殆どいない。近所の人も、子供の学校の友達も、そもそも自分自身の友達もドイツ人の割合がむしろ少ないぐらいである。自分は外国人だから苦労していると随分思い込んで引き籠っていたのだが、寧ろ悩んでいるその10年以上!もの間に同じ時間をかけてどんどん社会貢献をしている人達が沢山いたのである。

思い返せば、随分と努力もせずに楽な道を歩いてしまったものだ。

そしてこの10年の悪戦苦闘の期間に、私は「越境文学」というものに非常に興味を持つことになった。始まりはチェコ出身でフランスに亡命してフランス語で文学作品を書いたミラン・クンデラ氏。長崎県出身でイギリスでノーベル賞を受賞したカズオ・イシグロ氏。ドイツ在住で日本語、ドイツ語両方の言語で書く多和田葉子氏。中国人で初めて芥川賞を受賞された楊逸氏も越境文学者の一人であろう。

今では一つのジャンルを形成しているこの越境文学も、私がドイツに渡ってきた頃にはまだそれ程話題になっていたわけではない。だが母国と離れて孤独のうちに、何とか精神性を保ち、自己の母国と在住先との価値観違いの中でどのように自己破壊したあとに自己を再構築するか悪戦苦闘していた私にとっては、大きな指針となるような文学だったのだ。

それまで自分自身そのものと思っていた価値観が大きく崩れ、新しい文化の中で自己を再構築していく作業は決して簡単なことではなく、今でも微妙に揺れ動く世界の認識の中で、何とか正気を保ちながら生きている様な感じだ。いっそのこと灰になれば同じと思えれば良いのだが、そう簡単にも行くまい。

おりしもこの17年間は世界のグローバル化というものが急速に発達した時期で、インターネットの発達もあり、今では世界はぐっと狭くなっている様に感じる。生活上の利便性という意味ではある意味生き難さは随分軽減されている様に感じる。「越境文学」というものが別に珍しいものではなくなっている。寧ろその中におけるそれぞれの作家の「越境文学」としての共通性だけではなく、相違点もどんどん注視していく必要があるだろう。

そんな中で私自身は、これからも海外に住み続け、多分骨をうずめるであろう「移民」として、これからも「越境文学」や自分自身を通して、人間の精神を創り出す文化的背景や宗教、政治的背景、近現代史、また母国の文化を離れると所謂デラシネ(根無し草)として、永遠に魂をさ迷わせなければならないのか。母国ではない国に本当に根付いて生きていくとはどういうことなのか等を、動きながら、走りながら、考え続けながら読書もしていけられればと思う。

折しもコロナ、家の中に留められ孤独を感じながらつい自分の生き方等を考えてしまうこの時期、存在の不安と戦いながら生きてきた立場としては、意外に強くいられるものだなと思う今日この頃なのである。



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