洗脳(その2)あの連中は私を抹消して作り直そうとしたの
そのとき人間の存在はいかなるところにあるのか。卑小な日常性に据え置かれる。背反する意識はどうなのか。意識は観念の上昇へと向かう。観念の上昇過程とは、イデオロギー、大きな物語としての宗教、世界を解釈できたと思う陰謀論などへの接近である。そのとき据え置かれた存在、すなわち卑小なる日常性は、たとえば、カルト教団が強いる理不尽な単純労働と窮乏生活への忍従によって満たされる。
拙稿「洗脳(その1)」では、先の大戦を契機として、戦勝国である米国が、敗戦国である日本および日本人が明治維新以降培ってきた価値観、歴史観、国家観、ありていにいえば世界観の変換を試みた方法と実践過程について、主に江藤淳の『閉された言語空間』を手引きとしてたどってきた。それを洗脳と表現することが適正かどうかを留保しつつも、まちがいなく、日本人における戦後的言説の定着というかたちで、米国は成果を上げた。江藤の表現を繰り返せば、〝日本人は日本人でない何ものか”(江藤淳)に変容した。そして今日に至ってもなお、日本(人)は先の大戦の総括をなしえず、米国への隷属と依存状態にある。そのことについての論及はまた別の機会とし、本稿では、まず洗脳とは何かに焦点を当て、それがいかなる条件下で成し遂げられるのかについて探る。
『ショック・ドクトリン(ナオミ・クライン著)』を読む
まえがき
『ショック・ドクトリン ―― 惨事便乗型資本主義の正体を暴く/原題〈THE SHOCK DOCTRINE The Rise Of Disaster Capitalism〉』は、2007年にアメリカで刊行され、日本語訳が出たのは2011年である。本題である〝ショック・ドクトリン“という言葉は日本語に訳しにくい。ドクトリンの日本語訳は、教義、教理、(宗教・政治・学問上の)主義、方針、学説、理論、(国家の政策上の)公式宣言、主義 といったものだが、上にショックをつけると、「ショック理論」「ショック主義」となるのかもしれないが、ピンとこない。日本では、副題である「惨事資本主義の勃興」を意訳して「惨事(便乗型)資本主義」として流通している。
(一)3つのショック
著者(以下「ナオミ」という)自身がショック・ドクトリンについて極めて分かりやすく記述した箇所が本文中にある。その箇所はナオミが、CIAと連携して拷問手法を開発したユーイン・キャメロンという「ショック博士」により実際に拷問を受けたゲイル・カストナーという人物に接触し取材を試みようとしたときの会話である。
一番目のショックはわかりやすい。筆者は経験したことがないが、人びとは茫然自失状態に陥ってしまうのであろう。二番目のショックというのは、惨事のあと「復興支援」と称して、国際機関、アメリカ、EU、日本といった「先進諸国」から派遣される経済顧問ら(シカゴボーイズ〔注2〕と呼ばれる)による制度改革を伴った新自由主義経済支配のはじまりである。三番目は、本稿のテーマである個体に対する暴力的ショックによる拷問・洗脳・マインド・コントロールである。
ナオミは、1940年代後半に人間の脳に電気ショックを与えて白紙状態に戻し、そこになんでも書き込める実験を繰り返したシリル・J・Cケネディ博士とディヴィッド・アンケル博士の電気ショック治療法や、1950年代、同じく電気ショック療法(電気けいれん療法)を「発明」した精神科医ウーゴ・ツェルレッティの「業績」にもふれている。
(二)ユーイン・キャメロン博士の人体実験
洗脳実験の被害者カストナーとの接触に成功したナオミは、彼女をこう描写する。(カストナーの)背中には細かい骨折がたくさんあり、関節炎が悪化するとひどく痛むのだという。これは脳の前頭葉に150~200ボルトの電流を63回流され、そのたびに処置台の上で体が激しくけいれんしたこと、そしてその衝撃で骨が折れたり、捻挫したり、唇が切れたり、歯が折れたりしたことの名残なのだ。そして、カストナーから、こんな言葉を投げかけられる。
あの連中は私を抹消して作り直そうとしたの ーー 人体実験体験
カストナーは、その体験のあとからずっと重い記憶障害に悩まされてきたのだが、原因はわからなかったという。自身のショック体験を知るようになったきっかけは、1992年、彼女の恋人(ホロコーストの生存者で、やはり記憶とその喪失という問題に強い関心をもっていた)と街を歩いているとき、新聞スタンドで「洗脳実験 犠牲者補償へ」という新聞の見出しを見たことだった。そして、「赤ちゃん言葉」「記憶障害」「失禁」などの言葉が目に飛び込んできた。詳しく記事を読むと、1950年代にCIAの依頼を受けたカナダ、モントリオールの精神科医が、患者を実験台にして常軌を逸した実験を行ったというのだ。
実験の詳細を入手
カストナーはアラン記念研究所から138ページに及ぶ記録を入手する。手紙やメモ、カルテなどで構成された彼女の医療記録が語るのは、まさに悲痛な物語だった。それは1950年代の少女に与えられた選択の自由がいかにかぎられたものだったかだけでなく、政府や医師がいかにその権力を乱用したかについても雄弁に物語っていた。以下、その記録を要約してみよう。
●カストナーはマギル大学看護学科の成績優秀な学生だった。ところが、彼女は不安神経症を患っていた。キャメロン博士のアセスメントは「これまでまずまずバランスの取れた人格を保ってきた」が神経症の原因は娘に対して「くり返し心理的虐待」を行う「きわめて物騒な」男性、すなわち彼女の父親にあるとキャメロンは記録している。
●カストナーは入院当初、看護師たちに好感を持たれていた。看護師たちはカストナーを「明るく」「社交的」「きちんとしている」と描写している。
●ところが入院生活が長引くにつれ、カストナーの性格は劇的に変化した。入院から数週間後には「子どもじみた振る舞いをしたり、突拍子もないことを口にしたり、幻覚を起こされているようにも、破壊的にも見える」とある。聡明な若い女性だったカストナーは今や、数は6までしか数えられず、つぎには「ひとを操作しようとし、敵意むき出しで、きわめて攻撃的」となり、さらには無表情ですべてに受動的、家族の顔も見分けられない状態に陥ってしまう。最終的な診断は、入院当初の「不安神経群」よりはるかに重症の「著しいヒステリー性の特徴を伴う(中略)精神分裂病」というものだった。
ナオミは次のように書いている。
(三)ヒトの脳を白紙化、空白化する
カストナーは自分の医療記録を読み直したのちに、自分がどのような体験をしたのか知ろうと、調査を開始する。その結果、▽ユーイン・キャメロンはスコットランド生まれのアメリカ人で、アメリカ精神医学会、カナダ精神医学会、世界精神医学会の会長であったこと、▽1945年、ナチス・ドイツの戦争犯罪を裁くニュルンベルク裁判でナチ党副総統ルドルフ・ヘスの精神鑑定を行った3人のアメリカ人精神科医のうちの一人だったこと、▽キャメロンが患者の精神疾患の根本原因を探るのにフロイトの創始した「会話療法」という標準的な方法を用いるのをやめていたことなど ―― をつきとめる。
キャメロンとCIA
キャメロンは患者の症状を改善したりするのではなく、「精神誘導(サイキック・ドライビング)」という彼の考案した方法によって患者を作り変えようとしたのだ。カストナーが調査を開始していた時点では、キャメロンはすでに他界していたが、何十本もの学術論文や講演録が残されていた。また、CIAが資金提供した洗脳実験に関する本〔注3〕も何冊か出版されており、これらの本にはキャメロンとCIAの関係についての詳細な事実が記されていたという。
キャメロンが発表した論文から、「患者に健全な行動を取り戻させるための唯一の方法は、彼らの脳の中に入って「古い病的な行動様式(パターン)を破壊する」ことしかないと確信していたことが示されているという。その第一段階は「脱行動様式化(デパターニング)」であり、その目的は脳をアリストテレスの言う「何も書かれていない石版」すなわち「白紙状態(タブラ・ラサ)」に戻すという驚愕すべきものだった。脳に、その正常な機能を阻害するありとあらゆる手段を使って一斉攻撃をしかけることによって、こうした白紙状態をつくることができるとキャメロンは考えた。それは人間の心に対する「衝撃と恐怖」作戦そのものだった。
電気ショック療法(ETC)がもたらす退行
ETCは1940年代後半、ヨーロッパと北米の精神科医の間に広まりつつあった。前頭葉を切除するロボトミー手術に比べて恒久的なダメージが少なく、ヒステリー患者の治療に効果が認められたからだという。しかしこれらの効果はあくまでも結果であってそれがなぜ有効なのかといったメカニズムを科学的に説明することができなかった。しかもETCには健忘症という副作用があることは認識されていた。ETCを受けた患者には記憶喪失と同時に退行 ーー 患者が指しゃぶりをしたり、胎児のような形に体を丸めたり、食事を赤ん坊のように食べさせてもらったり、母親を求めて泣いたりしたこと ーー が臨床研究に記録されている。その一方で、キャメロン博士は退行すなわち記憶の空白に注目した。それまでの悪しき習慣がすべて除去され、新しいパターンをヒトの脳に書き込むことができるというわけである。
日本人は、本稿(その1)でみたとおり、先の大戦中、米軍から都市無差別空爆および広島・長崎における核攻撃(原爆投下)を受けた。米軍の意図は、ナオミの表現を借りれば、日本を石器時代に戻し、日本人の頭を白紙化することが主眼だったのかもしれない。なぜならば、そのとき日本帝国はほぼ完全に全土における制空権を失っており、米空軍は自由飛行できたのであるから、住宅地等(非戦闘員、生活インフラ)に対する爆撃を回避しようと思えば、回避できたはずだ。ところが、米軍は焼夷弾という日本家屋の特性である木造建築を焼き尽くす特別仕様の爆弾を使用したばかりか、戦況上まったく必要のない核爆弾まで使用した。米軍による空爆は日本帝国の軍事施設、軍事工場を破壊するという戦略的目標達成のためという米国側の主張はあとづけの理屈であって、米軍は非戦闘員、すなわち生活者の殺戮をつうじてすべての日本人に恐怖(ショック)を与え、日本人洗脳の地均しを企図した可能性を否定できない。
薬剤投与による完全なるデパターニング、そして精神誘導へ
患者のデパータニングを完全なものとするため、キャメロン博士は電気ショックの回数を1回ではなく連続して6回まで与える「ページ=ラッセル法」という新しい手法を使ったが、患者の人格が完全に消失していないと判断すると、中枢神経刺激剤と鎮静剤、幻覚剤など(クロルプロマジン、バルビツール剤、アミタール塩、亜酸化窒素/笑気ガス、メタンフェタミン、セコナール、ネンブタール、ベルナール、メリコーネ、ラガクティル、インシュリンなどの薬品)を投与して患者の見当識をさらに混乱させた。
キャメロンの荒っぽい「治療法」は洗脳の基本パターンを表しているようにみえる。国家(国民)と患者(個体)という違いはあるものの、本稿(その1)でみた、〈検閲=白紙化〉〈教育・宣伝=精神誘導〉のプロセスである。
キャメロンの先輩・ヘップ博士の感覚遮断という洗脳方法
1950年代半ば、東西冷戦激化に伴い、諜報戦強化の一環としてCIAがキャメロンの研究に興味を示し、局内に秘密プロジェクトを立ち上げる。目的は米国内の共産主義者及び捕らえた東側スパイを尋問して情報を聞き出す方法への応用である。このプロジェクトは発足当時、「ブルーバード」と名づけられ、次に「アーティチョーク」、そして「MKウルトラ」と呼ばれたという。その後10年間、「MKウルトラ」はこの研究に2,500万ドルを費やし、44の大学、12の病院を含む80の機関を巻き込んで実施された。
しかしながら、実はこうした研究をアメリカ国内で公開の下、大規模化し研究材料としてアメリカ人を使うことは難しかった。CIAが最初に接触したのは、マギル大学の心理学科長ドナルド・ヘップ博士だった。ヘップはキャメロンの先輩にあたる。
1950年代初頭(1951年)、ヘップ博士はカナダ国防相から研究資金を入手し、同大学の学生63人に1日20ドルを支払い、目には黒ゴーグル、耳にはホワイトノイズ〔注4〕の流れるヘッドホンを着け、手と腕は物に触れられないよう段ボールで覆われた感覚遮断の実験を数日間にわたって施した。視覚、聴覚、触角を奪われた状態の学生たちは、無の海に漂い、日に日に研ぎ澄まされる想像の世界の中で何日も過ごした。その後、ヘップは、実験前に学生たちが同意できないと答えていた幽霊の存在や、科学の不正について語るテープを聞かせ、感覚遮断によって「洗脳」されやすくなるかどうか調べた。
CIA資金がキャメロンの「研究」を過激化
キャメロンがCIAから最初に研究資金を受け取ったのは、前出のヘップから遅れること6年後の1957年だった。この資金は人間生態学調査協会と呼ばれる偽装組織を通して「洗浄」されていた。そしてこの資金が投入されることによって、アラン記念研究所は病院から、おぞましい「収容所」ともいうべき場所へと変貌した。
感覚遮断とカルト宗教の洗脳
キャメロンは患者の心を空白にするため、感覚遮断と長時間にわたる睡眠を駆使した。この二つのプロセスにより患者の心的防衛がさらに減じられ、テープに録音されたメッセージに対する受容性が増すとキャメロンは主張したという。キャメロンはCIAの資金を使って隔離小屋を造設、病院の地下を巧妙に改装して「隔離室」と呼ばれる防音装置を施した部屋を造った。ここではホワイトノイズが流され、照明は消され、患者は黒いゴーグルとヘッドホンを装着させられる。患者の感覚遮断をさらに増幅させるため、彼らを「睡眠室」に閉じ込め、薬物で1日20~22時間眠らせた。
ナオミは拷問の生存者の証言を次のように紹介している。
感覚遮断というヘップが開発し、キャメロンが進化させた洗脳の方法は注目に値する。この方法は、カルト教団が信者に対して行う洗脳に近いような気がしてならない。ETC・薬物の使用は、カルト教団が日常的に行うにはハードルが高すぎる。カルト教団の場合は、宣教師が信者になったばかりの者に対して、個別的に感覚遮断を長期間行うことにより、信者の頭の中を時間をかけて白紙化し、そのうえで、教団の一見壮大な教義をたたきこんでいく。教団のリクルーティングにかかってしまう者は、身内の不幸、惨事を体験した者、心に空白を抱えた者である場合が多い。こうして洗脳した者をマインドコントロールして、多額の献金や霊感商法で法外な品々を買わせることが可能となる。日本人の未婚女性を韓国に連れていき、集団結婚式に参加させることも容易だったに違いない。
対諜報尋問マニュアルへの進化
冷戦終結(1989)直前の1988年、『ニューヨークタイムズ』がホンジュラスにおける拷問と暗殺にアメリカ政府が関与していたというスクープ記事を掲載した。それによると、ホンジュラスの悪名高い死の部隊「パタリオン3ー16」の尋問官不ロレンス・カバジェロら25名の隊員がアメリカテキサス州でCIAの訓練を受けたという。訓練の内容は捕虜を長時間立たせたり、怖がらせ眠らせない、性的暴行を加えたり、電気ショックを与える拷問手法だった。
カバジェロの部隊に尋問を受けた女性捕虜のイネス・ムリージョによると、拷問の現場には「ミスター・マイク」と呼ばれるアメリカ人がいて、尋問官に質問の仕方などを教えていたという。
この記事をきっかけとして、米国上院情報特別委員会の公聴会が開かれ、リチャード・ストルツCIA副長官はカバジェロがCIAの訓練に参加したことを認めた。それから9年後、CIAは「クバーク対諜報尋問」と題する小冊子を提出した。128ページのこの小冊子は「抵抗する情報源に対する尋問」に関する秘密マニュアルで、その大部分が前出の「MKウルトラ」が委託した研究に基づいており、全編にユーイン・キャメロンとドンルド・ヘップの行った実験の痕跡が見て取れるという。
ヘップやキャメロンが行った感覚遮断のための方法は、恐ろしい軍事における尋問技術へと転用されたのである。このマニュアルを作成した軍関係者の関心は、被験者の退行現象へのキャメロンのこだわりだったとナオミはいう。
(四)あらためて『ショック・ドクトリン』について
冒頭で示したとおり、本書は3つのショックから、冷戦期、冷戦の崩壊、その後の新自由主義の時代を論じた現代史である。その概要を目次で示す。
本稿は同書の第一章を通じて洗脳について学んだのだが、筆者が本書を最初に読んだとき(2013年10月29日)には、こんな感想を書きとどめていた。
きわめてナイーブ(うぶ)な感想だが、間違ってはいないと思っている。冷戦期の1970年代からイラク戦争(2003年に勃発)までの現代史を本書に従い振り返ってみると、世界の動きというものが、あたかも一本の糸で結ばれているように思え合点がいく。ナオミが以下、簡潔に〈この時代〉を活写している。
本書は現代資本主義論であって、洗脳のみを扱ったわけではないことは言うまでもない。本書が扱う対象地域は、ハリケーン・カトリーナが襲ったアメリカルイジアナ州ニューオーリンズ、南部南米諸国、サッチャー時代のイギリス、ベルリンの壁崩壊後の東欧、天安門事件と中国、アパルトヘイト政策終了後の南アフリカ、ソ連崩壊後のロシア、アジア(タイ、インドネシア、マレーシア、韓国)、9.11後(チェイニーとラムズフェルド時代)のアメリカ、イラク戦争とその後のイラク、スマトラ沖地震による大津波に襲われたスリランカ、モルディブなど広大である。自然、人為を問わず惨事発生後に新自由主義経済政策が導入され、そこに住む生活者を再度、経済的、思想的に苦しめる。
ナオミは本書刊行後(2017)の著書『NOでは足りない トランプ・ショックに対処する方法』において、ウォーレン・バフィット〔注6〕の発言を再引用して、新自由主義について次のように書いている。
シカゴ学派が自由市場に全面的拝跪する根源を探ること、そして、バフィットが言う「革命」とは1968革命の反革命なのかーー筆者にとっての次なる課題が浮上する。
(五)カルトといかに闘うか
島岡まな(大阪大学副学長)は、紀藤正樹(全国霊感商法対策弁護士会事務局長代行 )、田近肇(近畿大学法学部教授)との座談会「カルト規制はどうあるべきか」(雑誌『世界』2022年12月号)において、次のように語っている。
無知・脆弱性不法利用罪
紀藤、島岡の座談会における無知・脆弱性不法利用罪に係る発言は、フランスの「反セクト法」第5章を念頭において語られたもので、統一教会問題に代表されるカルト宗教団体の高額献金、霊感商法等を法整備により規制できるか、という文脈における発言であるのだが、洗脳を考えるうえでも注目すべき要素を含んでいるように思える。それが〈無知・脆弱性不法利用〉への着眼である。
洗脳の下での献金等の誘導は犯罪である
フランスの反セクト法第五章についての筆者の受け止めは、以下の通りである。〈無知〉は学力、社会経験の不足等から、物事一般を判断する知識がない未成年者等に対して、そして〈脆弱性〉は、生活者がなにかの要因によって精神に動揺を覚え、心が脆弱状態に陥っている者に対して、そこにつけこんで、それらの者に不利益な契約・約束の締結あるいは入信などを勧める行為を違法とするという、かなり踏み込んだ規定だと思われる。まず〈無知〉という表現がわかりやすい。未成年者、精神障がい者、高齢者等がこの法令で守られる。かつての禁治産者、すなわち、現「成年後見人制度」における心身喪失状態のイメージに近い。
〈脆弱性〉は普通の生活を送るのに不自由しない生活者がたとえば、大きなショックを受けたときなどにおいて、その者の精神状態が普段と異なる状態、すなわち脆弱状態におかれる場合が生じる。同法では、そこで交わされた他者との諸々の約束事や契約は不法侵害だと認定される。
また、〈無知〉というカテゴリーは、宗教二世問題の救済につながる可能性があるし、〈脆弱性〉のそれは、入信→洗脳→マインド・コントロール→献金等を規制できる可能性がある。
ただし、〈脆弱性〉については、旧禁治産者の心神喪失状態と同様、医学的(客観的)に定めた基準に基づく判断が困難なため、司法がケース・バイ・ケースで判断することになるものと思われる。
カルトからの勧誘をふせぐ方法はない
フランスの「反セクト法」が規定する無知・脆弱性のガイストを洗脳につなげて考えてみると、生活者が洗脳される契機は、主に、心が脆弱状態におかれたときだが、それほど大きなショックを受けたときにかぎらず、たとえば、大学に入学したばかりの若者がヨガ教室だとか読書会だとかに誘われて、カルト宗教に入信してしまうケースにも当てはまる。彼ら彼女らが、カルト教団が偽装した窓口に誘導されるのは、大学に居場所を見つけられない状態だったからだと推測できる。地方から大都会の大学に入学した若者には、受験勉強から解放された結果、満喫できる自由がある一方で、その裏腹の孤立感、虚無感が同居していて不思議はない。大学生活に順応してサークル、同好会、アルバイト等で新しい関係性を構築できた者と、新たな生活環境に馴染めず、宙ぶらり状態に陥ってしまった者が必ずいるはずである。後者には、自ら新たな関係性を構築できずにいる地方出身者が多く含まれるのかもしれない。そうした彼ら彼女らをターゲットにするのが、カルト教団のリクルーティングの常道である。
旧統一教会 有権者数約8万人、年間献金額600億円
旧統一教会の信者数は教団側の発表では60万人、宗教リサーチセンター調べでは56万人、しかし実態は6万人とも言われていて実数は不明である。『東京新聞 論壇時評(2022/08/29夕刊)』に掲載された中島岳志の『旧統一教会と自民党/ 固定票と「悪魔の取引」』 は、参議院選挙における旧統一教会の介入戦略についての小論だが、文中、〝旧統一教会の有権者を8万3千人程度と推計する”(『武器としての世論調査/ちくま新書』三春充希〔著〕)を中島が再引用している。これからも、旧統一教会の信徒数はそれほど多くないとみていい。
その一方、同教団が集めた献金額は、『文春オンライン( source:週刊文春 2022年8月18日・25日号)』によると、2009年の「コンプライアンス宣言」以後の3年間、約600億円ずつ集めていた、と報道されているが、こちらも確かなことはわからない。とはいえ、報道されている旧統一教会被害者の献金額がのきなみ億単位であることから、小規模な宗教法人が集められる額ではないように思える。
そこで思い出されるのが、本稿(その1)でみた、米国による戦後日本に対する諜報部門における占領政策、すなわち、ⓐ検閲、ⓑ 調査、©️情報・宣伝の3点セットである。大戦終了以降、この3点セットを基本としながら、米軍による洗脳→マインド・コントロールの技術は大きな発展をみたことは先述の通りである。カルト教団がその技術を受け継ぎ、ⓑ信徒の家庭環境・財産状態等を調査・把握し、ⓐ資産家の信徒に絞り込んで、検閲と似たような閉ざされた状態に置き、©️そこで教義を叩き込み、平常の判断力を失わせ、多額な献金や霊感商法により高額な商品を購入させる ―― という手口が想像できる。
カルトの勧誘を遮断する術はない。カルト教団の被害を免れる最善策はそれに近づかないことであろうが、それは不可能だ。社会が人間同士のつながりで形成されている以上、カルトとの接触・勧誘を完全に回避することは不可能だ。カルトにかぎらず、他からの思想的影響等を受けないで済ますことはできない、それは人間に考えることをやめろと言うに等しい。
あとがき ―― 社会ができること
社会ができるのは、一部のカルト教団のような反社会的集団 ―― 宗教団体を名乗りつつ、さまざまな擬態を凝らして経済犯罪を繰り返す集団 ーー から生活者を守ることだ。洗脳下の高額献金や霊感商法といった宗教的経済犯罪被害者を救済することだ。それには、たとえば、前出のような洗脳下での献金や契約を無効にできる法を整備することではなかろうか。
また併せて、前出の中島論文〔注8〕によると、カルト(セクト)を特定する指標として、▽精神的不安定化、▽法外な金銭要求、▽元の生活からの意図的な引き離し、▽身体の完全性への加害、▽児童の加入強要、▽大なり小なり反社会的な言質 、▽公序への侵害、▽多大な司法的闘争、▽通常の経済流通経路からの逸脱、▽公権力への浸透の企て ーー が規定されている。また、 洗脳すなわち精神操作罪に関しても同様だという。日本でもそれを法的に定義することが本当に難しいものなのかについて、公開のうえ、議論を尽くすことも重要だと思われる。
参照文献
(その1)
『閉された言語空間』 江藤淳 文春文庫
『敗北の構造 吉本隆明講演集』吉本隆明 弓立社
『太平洋戦争史』聯合軍総司令部民間情報教育局資料提供 中屋健弌訳 高山書院
『大元帥 昭和天皇』山田朗 ちくま学芸文庫
『戦争の谺』川村湊 白水社
『wikipedia』
(その2)
「マチウス試論」『芸術的抵抗と挫折』吉本隆明 ebookjapan
『ショック・ドクトリン』ナオミ・クライン 岩波書店
『NOでは足りない』ナオミ・クライン 岩波書店
『フランス公法と反セクト法』 中島宏 一橋法学第1巻第3号2002年11月号
「旧統一教会と自民党 固定票と悪魔の取引」中島岳志『東京新聞』 論壇時評(2022/08/29夕刊)
『文春オンライン』( source:週刊文春 2022年8月18日・25日号)
座談会「カルト規制はどうあるべきか」/島岡まな/紀藤正樹/田近肇 雑誌『世界』2022年12月号
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?