裁判員制度をあまりよい制度とは思わない理由(異論歓迎)               〜民主主義の限界〜

裁判員制度について

最近大学の授業で裁判員制度について学習したが、よく考えてみると裁判員制度(国民から選ばれた裁判員が刑事裁判に参加する制度 URL裁判員制度 (courts.go.jp))って結構やばい制度ではないかと思ってしまった。というより正確には司法の民主化を拡大させていこうという日本の風潮がやばいなと感じている。みなさんは民主主義の意味を本当に正しく理解できているだろうか。「日本は民主主義国家だ!だから司法の世界も国民の意見(民意)を反映していかなければならない!!」おそらく裁判員制度に賛成の人はこういった類の主張をするだろう。しかしもう一度考えてみてほしい。この風潮(司法の民主化)の先に待ち受ける社会の姿を。政治の世界で民主主義は全く問題ない。だが司法で民主主義を尊重するとどんな社会になるか想像してみてほしい。

学校レベルで考えてみよう

国という大きいレベルで考えるから難しくなると思う。ここで学校のクラスレベルで考えてみよう。じゃあ例えば仮にあなたが今中学生で数学のテストでカンニングをしたとしよう。そしてあなたは先生にAパターンとBパターンの2つのタイプで叱責を受けたとしよう。あなたはどちらの叱責により納得がいくだろうか。

A「あなたはカンニングをしました。なので学校規則の第17条に記載されている通り、(学校規則のルールブックを見せながら)不正をした当該科目(つまり数学)の点数は0点となります。」

B「あなたはカンニング行為をしました。学校規則に則れば不正をした数学の科目のみが0点になります。ですがこの一件を先ほどクラスのみんなに話したところ、クラスのみんなは数学だけじゃ生ぬるい。今回のテストの全ての科目を0点にすべきだ。さらにそんな卑怯な奴は勉強する気がないので今すぐ当該生徒の机、椅子および筆箱を捨てるべきだ。という意見をクラスのみんなが主張したので(つまり民意なので)民意を尊重し、あなたの今回のテストの全ての科目が0点となりさらにあなたの机、椅子も撤去しました。あなたの筆箱も廃棄する必要があるので今すぐテストで使用した筆箱を私に渡してください。」

さて、どちらの叱責のされ方に納得がいくだろうか。
明らかにAの方に納得がいくだろう。逆にBのようなことをいわれたらすぐそのことを親に説明し教育委員会に訴えるなど即座に対応をするだろう。
この例からわかる通り民意(クラスの意見)を過度に信頼することは法治国家(学校規則)の崩壊を意味しかねない。司法が腐敗してしまう恐れがある。国家レベルにも教育委員会のような国家よりも権力が上でかつ民意を客観的に精査できるようなチェック機関があればいいのだが実際にそんな組織はない。そんな現実社会である以上、民意に過度に信頼を寄せるのは危なすぎる。

ヴィーガンの例

また、もう一つ例を挙げておこう。
ヴィーガン(肉食NG主義者)VS非ヴィーガン(肉食OK主義者)
※ヴィーガン・・・菜食主義者(動物にかわいそうだから肉食べるのやめよう                           ぜっていう考えの人々)
どちらが正しいかを議論する際、
ヴィーガンと非ヴィーガンどちらが正しいか世界投票したら
ヴィーガン支持60億人、非ヴィーガン支持20億人だった。
したがってヴィーガン支持が多数派なのでヴィーガンの方が正しい

上の論理は成立するだろうか。おそらく非ヴィーガン派の人は納得しないだろう。まだ「動物殺すのはかわいそうだから」と言ってくれた方がまだ納得できるはずだ。つまり「Aの方が多数派だからAの方が正しい」はそもそも論理的に成立しないのだ。

司法に民主主義を持ち込むのは御法度!

では少し言い方を変えて、先の例で、ヴィーガンのが多数派なので政府はヴィーガン派に向けた政策を実行すべきである。これは論理的に成立するだろうか。
結論で言えばこれは成立する。なぜなら多数派の幸福のための政策を実施する方がそうでない方と比べ市民全体の幸福量は増大するからだ。つまり政治については民主主義は成立する。なぜなら最大多数の最大幸福というように,できるだけ多くの人々が幸せに過ごせる社会の構築を目指すのが政治だからである。より多数派の意見を取り入れる方が国民全体の幸せの量は増大する。よって理にかなっているといえる。しかし司法についてはどうだろう。司法はどちらの方が「正しい」かを決める場所だ。(例えばこの被告人に「死刑」にするか「懲役20年」にするかどちらの処罰の方がより正しいかを決める場所)。ヴィーガンの例からわかる通り、多数派の意見を「取り入れる」のは妥当だが、多数派だからそちらの方が「正しい」とはならなかった。
ぶっちゃけ政治は「正しい」かどうかは重要ではない。仮に政府が消費税80%の政策を実施するとして、客観的に見ればそれは「間違った(正しくない)」政策だが、統治されている国民たちがその政策に納得しているのではあればある意味OKだ。しかし司法の世界は違う。処罰は人の人権を侵害する行為といえるので絶対に「正しい」判決であることが求められる。
よって民意(多数派意見)を安易に司法の世界に取り入れてはいけないのだ。
「多数派だから正しい」という論理は成立しないのだから(ヴィーガンの例)。

まとめ

いかがだったであろうか。民主主義を司法に持ち込む危険性を理解していただけたのではないだろうか。裁判に民意を取り入れるべきという風潮(司法の民主化)はすなわち歴史上にあった「ガリレオ裁判」や「魔女狩り裁判」のような人類が恥じなければならない悲惨な歴史を繰り返してしまう危険性をはらんでいる。


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