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食肉倫理について考える

評論家の宇野常寛さんが運営するスローメディアサイト『遅いインターネット』にて、食肉倫理について考えるきっかけとなる記事が投稿された。

記事のタイトルは、『倫理学者に食肉倫理を扱ったカードゲームをやってもらうとどうなるのか?』

シリアスゲームについて研究をしている大谷通高さんが作成・販売しているカードゲーム、『マナーな食卓』をプレーした感想交換を起点にしながら、生命倫理学の研究をしている東京理科大学の堀田義太郎さんと、食農倫理学、環境倫理学を研究している南山大学の太田和彦さんという2名の倫理学者に、『マナーな食卓』の制作にかかわったゲーム研究家の井上明人さんも交えて、食肉倫理について議論を深めていく、という記事だ。

カードゲームの説明や議論の内容については、是非元記事に目を通していただければと思っているが、今回はその記事を読んで感じた、自分は食肉に関してどのような倫理観を持ち合わせているのか、ひいては、現代の食肉に関する倫理観とその問題点について、自戒をこめて内省&考察しつつその内容をまとめたいと考えている。

「いただきます」の意味~食肉に関する倫理観~

今回の内省でまず取り掛かりたい問いは、「食肉に関して自分はどのような倫理観を持ち合わせていたか、またそれはなぜか」だ。

とはいえなにぶん、食肉に関して考えたことなど本記事を読むまではなかったと言っていいため、顕在化・言語化している倫理観は一つもない。
そのため、自分の過去の行動、思考などを振り返りながら、その土台となっている潜在的な倫理観について考察していく必要がある。

そんな中で、考える入口として最適なのが、「いただきます」という言葉ではないかと思う。
本記事でも、ゲームの作者である大谷さんは以下のように語っている。

大谷「(中略)肉を食べるって命を頂くことです。「いただきます」という言葉がありますね。この言葉にはいろいろな意味があると思いますが、そのひとつに食材に対して敬意を示す言葉でもあると思います。」

『倫理学者に食肉倫理を扱ったカードゲームをやってもらうとどうなるのか?』より

「いただきます」には、さまざまな意味があり、そのひとつに食材に対して敬意を表す、という意味があるという。
この文を読んだ時に思ったことは、「自分は食材への敬意というよりも、生産者への敬意という感覚の方が強いな」ということだ。

食事を取るとき、肉に限らず様々な命をいただくことになる。そこへの敬意を示すことが「いただきます」の意味に含まれていることについては、昔から知っていた。
しかし自分が「いただきます」というときは、作ってくれた妻、母親、レストランのシェフの方に対して、「作ってくれてありがとう」という謝意を示すために、「いただきます」と言っていることがほとんどだ。

太田「「肉を食べることについて折り合いをつける」という話をするにあたっては、誰に対して、何について折り合いをつけようとしているのかについてもう少し細かく考えた方がよいかと思います。食肉についての議論の中では見過ごされがちですが、フードシステムの中には、(1)私たちのような肉を「食べるもの」と、(2)家畜という「食べられるもの」だけでなく、(3)畜産や加工・運輸・小売に携わっている「食べさせるもの」がいるわけです。」

同記事より抜粋

「食べるもの」「食べられるもの」「食べさせるもの」という3者が存在するフードシステムにおいて、自分(「食べるもの」)の「いただきます」は「食べさせるもの」にだけ向いており、「食べられるもの」についてはあまり向けられていない。これは自分の食に対する倫理観を考えるうえで、重要な観点なのではないかと思っている。

都市部で生まれ、都市部で育ってきた自分にとっては、「食べられるもの」は「食べさせるもの」が調達、調理をして提供してくれるものであり、「食べられるもの」との直接接点を持つことはほとんどなかった。
大人になって自分が料理をするようになった今でもそれは変わっておらず、「食べられるもの」を自分が調達しに行くときには、スーパーやディスカウントストアなど「食べさせるもの」が既に調達してくれたものに対し、対価を払って手に入れる。「食べられるもの」はまさに「もの」であって、かつて命が宿っていたものとして見ることはない。

自分と「食べられるもの」との間には、常に「食べさせるもの」が幾重にも仲介しているのであり、その構造で生まれ育ってきた自分にとって、「食べられるものの命を頂いている」という感覚はなかなか持ちづらいなと感じている。

これは、現代の多くの人にも当てはまるのではないだろうか。
食糧調達がより直接的で、かつ安定性が低い昔の時代などは、問題なく食料たちがすくすくと育ってくれることのありがたみや、すくすく育ったものたちのおかげで自分は生きることができていることについてより実感値を持てただろうし、心から「ありがとう」と思いやすかっただろう。
しかし、先に述べた幾重の仲介によって成り立っている安定的な現代のフードシステムに生かされている現代の人たちは、そのありがたみを感じることが非常に難しくなっているのではないだろうか。

もっというと、「食べさせるもの」に対する謝意も、どこまで持ち合わせているかと問うと、少し怪しいと思う部分もある。
果たして自分が「いただきます」と言う際に、スーパーでレジ打ちしてくれた人、食材を加工して並べてくれた人、スーパーまで届けてくれた人、そもそも食材を育て、獲ってきてくれた人の顔がどこまで浮かんでいるだろうか。正直ほとんどは浮かんでいないのではないだろうか。

食材を手に入れるときには、対価となる金銭を払ってそれを手に入れる。「ファイナンスの語源はfinishであり、金銭を伴うやり取りは関係を終わらせる」
とは良く言ったもので、多くの人は金銭によってその食材を手に入れたタイミングで、「もう十分対価は支払った」と考え、その後思い起こすようなことはしないのではないはずだ。

この「食べるもの」と「食べさせるもの」の間に生まれている距離感は、現在巻き起こっている食肉倫理に関する問題を考えるうえで大きな壁になる。
畜産農場で過酷な扱いをされている動物たちの映像を見たとしても、畜産に関するエネルギー消費が地球温暖化を加速させるとしても、それ自体は問題だと思うことができたとしても、それが自分の食生活にリンクしていることを心から理解できている人は少ないのではないだろうか。
「動物たちはかわいそうなのは確かだけど、自分の食生活は変えたくない」という他人事のようなスタンスは、上記のような距離感によるところも大きいのではないだろうか。

極論ではあるが、1匹の鶏が畜産農場でくちばしを切り落とされて管理され、屠殺場で処理されたのを見てから、その鶏肉を食べてくださいといわれると、多くの人が二の足を踏むだろう。
大きく育ったフードシステムによってそのショッキングな事実から距離を置くことが出来ている現代人は、まるで罪悪感など微塵も感じることなく、おいしい食事を取っている。

上記のことを踏まえて我々が取るべき行動、または啓発していくべきことは、フードシステム全体がどのようになっているかを理解することに努めることなのではないかと思う。

自分が手に取っている、口に運んでいる食材は、一体どこから来たのか
どんな経緯で、どんなプロセスで自分の手元に届いたのか
それらの情報をしっかりと把握し、その上で購買を行うことが重要ではないだろうか。
購買を行うということは、ただそのものを手に入れるというだけではない。
そのものを調達し用意したプロセスに対してYesを与え、取り組みが長く続くように資金を供給するということだ。
幾重にも間に入っている「食べさせるもの」が一体どんな行動をしているのか、「食べられるもの」はどこからやってきたのかを知り、そのプロセス全体も含めて購買の意志決定をしていくことで、市場原理に従って最も支持される洗練されたプロセスが残っていくはずだ。

また、今後は企業側も、最終的なモノだけではなく、そこに至るまでのプロセス全体を開示していくことが、より求められるのではないだろうか。そのような兆しは同記事の内容にも見て取れた。

井上「まず食にかかわる倫理や食の様々な場面を扱ったゲームがあるかどうかについて話します。実は結構あります。シリアスゲーム系でよく参照されるのが、『ザ・マクドナルドビデオゲーム』です。マクドナルドのフードチェーンの仕組みを支えるためにどれだけウシや農作物に負担がかかっているのか体験するデジタルゲームです。」

同記事より抜粋

食を提供している世界最大手企業の一つであるマクドナルドは、自分たちの活動に対する情報開示もしっかり行い、そのうえで消費者に選んでもらいたいことを少なからず意思表示していると言える。
このような動きが進んでいくことで、多くの人たちが自分の食に関わる調達方法について考えることが増え、その考えた結果が購買行動に影響を与え、その購買行動によって企業は選別&変容していくだろう。
個人的には、このような情報開示活動は積極的に支持したいと考える。

改めて、自分が関わっている食物がどんなプロセスでここまでやってきたのか。そこへの理解を深めることを自戒としつつ、今回の内省を終了する。

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