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短編小説その22「ロックバンド」

      ロックバンド

男はロックが好きである。ロックバンドが鳴らす轟音が、耳をつんざき体にしびれわたる音が好きである。公演が近くである時には必ず聞きに行く。できる限り前列に席を取って体中に音を浴びる。貫通して倒れるくらいに浴びる。ただ、体は動かさない。じっと座っている。音が脳髄を駆け巡って犯しているその感覚こそがたまらなく好きである。ある時有名なロックバンドがやって来た。上等な席を取ることができてとても楽しむことができた。公演が終わった時にはしばらく立ち上がれない。踊り疲れた誰しもが座席にぐったりしている。ロックの公演に参加することは激しいスポーツをすると同様に体力を消耗する。すると見知らぬ女が傍に寄って来る。座席が通路側なので自らに寄って来たと女とは思っていない。離れ離れの席になっていたカップルが孤独の時を捨て去り、体を柔らかに隣接させてこんどこそ同じ時を体感するつもりなのであろう。そんな思いに捕らわれたまま男は快感の余韻に浸っている。ところが女は男の傍らから離れて内側の席に動こうともしない、傍らに黙って立っている。男をじっと見詰めていて何か言いたそうである。でも関係ない。この奇妙な女の存在に自らが関与していると男が知ったのは、何も話しかけてこないためしばらく経ってからである。女が顔を傾げ男に近づけてきたため奇妙な匂いに気付いたためである。何かがおかしい。なぜなら男に一人として思い当たる女がいない。奇妙な匂いはしびれた体に癒すような効果をもたらしている。顔を近づけても女は何も言わない。ただ押し寄せてくる淫風のような悩ましい匂いが虜にしている。


自らが対象になっているのに気づいて男はどうしようかと思う。でもどうしようもない。知らぬ振りをして幾分緊張して目を逸らして前方を見ている。匂い含まれる濃密さが一定のリズムを取り、時々強烈に迫ってくる。発酵した果実の匂い、捨て置きされた魚の匂い、それに女の化粧の匂いに醸し出された体臭も含んでいるのかもしれない。それともまったく関係なしに、ロック音楽を聞いた後の名残りのリズムが、匂いそのものへと変換されて吹き込んでくるのだろうか。
「さあ、行きましょう」と女が言う。
「どこへ」と男は思わず聞き返す。
「もっと素敵なロックが聞けるわ」
男は美しい答えに思わず喜んでいる。
「そうか、では行こうかな」
 男は女の言うままに誘われる。疾うに男は決めていたのかもしれない。意外にもこうした事態は想定されていたのである。
「あなたは運がよかったわ」と女が言う。
「誰しもが聞けるロックではないのよ」
女は嬉しそうにして男の手を握り立ち上がらせる。まるで恋人気取りで男の腕に自らの腕を回して歩き始める。匂いは香ばしいし色っぽい。間欠的なリズムが響いてきて鼓動を思わせる。女の体から発せられている生きた発音なのだろうか。匂いに悩まされることはない。匂いよりも音の方がむしろ男には好ましいのである。いつしかまるでロック音楽を聞いているように胸に響き伝わっている。車に乗って着いた所は場末である。安キャバレーみたいな店に入って行く。照明は薄暗い。客席はぽつんと一つある。正面に大きなステージがあって楽器が並んでいる。ホステスは一人もいない。女は男を客席に座らせる。自らも寄り添うように座って、そっと男の手を握っている。


 男は怪訝に捕らわれながらも好い音楽が聞けると信じている。というより信じたいのだろう。辺りを見回して怪しさを確かめることなどなく握られた手を握り返している。もしや胡散臭い店であるのを承知している。好い音楽とは何であるのか、それさえ承知していれば良い。匂いがきつくなる。匂いとはむしろ発音よりも女の鼓動と体臭が放つ律動である。好い音楽とは律動が放つ生きた命の鼓動であるかもしれない。薄暗い店内に誰も現れることはない。またミュージックがかけられることもない。
「本当は疑っているのでしょう。ロックなんてありはしないと。でも、本当よ。もうすぐ始まるわ」
そう言いながら女は男に密に体を寄せてくる。鼓動と匂いのリズムがきつくなって男はむせ返りそうである。もはや濃密な体臭が化粧の匂いとともに巻き付いている。逃れられないくらいに強く匂いに抱き締められている。すると正面のステージに明かりが点される。楽器が光を浴びて光沢を放っている。何かが始まりそうである。男は女に抱き締められながらステージを凝視している。だが、何も始まらない。一人として人間が現れない。
「どこが本当なんだね。何も起こらないじゃないか」と男は不満げである。でも巻き付いた女の手を頻りに擦っている。
「もうすぐなのよ。もうすぐ始まるわ」
でも何事も起こらないまま時が経過する。いつの間にか女の息が荒くなってリズムが乱れている。まさかこれがロック音楽ではないと思いながらも、男はご満悦である。これこそが真のロック音楽であるかもしれない。心をときめかせ踊らせて期待が熱く胸を打つ音楽である。男は女の胸の内に手を入れて柔肌に触れる。熱い鼓動が伝わってくる。どうにも男は女の熱い思いを伝えられて熱さを共有している。


 突然ステージに閃光が放たれる。断続的に光の面が斜めに過ってステージを横断し始める。すると器楽を揃えたロックバンドの五人組がいる。彼らは熱く歌い始める。きっとマイクを握り器楽を演奏し始めるからには歌っているのだろう。男は突然始まった開演にあっけにとられる。ただ、音は伝わってこない。響き伝わってくる音がないのである。男は女に尋ねる。
「どうして音がしないんだろう。何かボリュームを上げなければいけないんだろうか」
女は当然といったふうに答える。
「そうよ。一緒に熱く歌わなければならないわ」
「一緒に歌うんだって」と男は素っ頓狂な声を発する。
「「一緒に歌ってこそ音楽は楽しむことができるのよ」
「本当にそうなんだね。嘘をついてはいけないよ」と言って男は女を放して立ち上がる。


手にマイクを握った振りをして歌い始める。ただ、声を発している積りが男は自らの歌う声を聞き取ることができない。どうしたんだろうと訝りながら女を見る。女は薄暗闇の中で色を染めた顔を傾けている。最初から傾いていたのだろうか、それとも品を作って媚びているだけなのだろうか。いかんとも分からずに男は熱唱する。ロックバンドも熱く歌っている。きっとそうであろう、ギターやシンセサイザーを操作する指が妖しく光っている。光の横断面がバンドの演奏に華やかさをもたらしている。男は演じられる轟音が聞こえてくるような気がする。でも何も伝わってくる音はない。どうしても人形芝居のように動く人形だけがあり声色や器楽は聞こえてこないのである。男は自らが歌うことを止めて席に戻る。
 女は待ち構えていたように言う。
「もっともっと熱く歌わなければいけないわ。あなたは生きているでしょう。生きているからには生きるための激しい行為が求められるものなのよ」
女の艶っぽく笑みを浮かべている傾いだ顔を男は見ている。
「でも、音は聞こえてこないではないか」
半開きの女の唇が濡れたように光っている。
「まだ足りないのよ。さあ、激しく愛して、するとあなたの頭の中にはロックミュージックがボリュームをあげて鳴り響くのよ。これこそが生きている証だわ。そうでなくって」
女は男の手を握り懇願する。
「君の言うことは嘘なんだ。何かしらの魂胆が隠されている。どうか教えてくれないだろうか」
男は真顔になって女を見る。女は首を傾げたまま妖しく笑っているだけである。
「どうして答えないんだ。そもそも何の目的でこんな場末のキャバレーに連れて来たんだ」
男に言うことに女は答えない。舞台で横断する光の面が客席にいる彼らを過ることはない。薄暗い中に男が女の胸の肌に直に触れると鼓動はいつしか消えていて、匂いさえ掻き消えるように無くなっている。ただ、見開かれた目が男を見ている。見ていると思われるだけで瞳は動いていない。男は突然叩きのめされた気がする。女は人形として在る。男の手によって狂おしく操作され、操り人形のように熱い命を復活することを望んでいる。それ以上に考えられるだろうか。この女のまやかしに乗った自らの迂闊さを男は責めている。元々人形であって女に命はなかったのである。命の息吹を吹き込まれたいと誘ってきた女は、既に死んでいた女なのである。
「どう分かって、分ったなら熱く抱擁して下さらない。お願いですから私を救って下さらない」と女がまるで機械音みたいな声で言っている。


 ステージではロックバンドが演奏している。でももはや光の横断面はなくて薄暗い。バンド員たちの手が影絵のように動いている。音を求めても無理であろう。でも男は女の胸をまさぐりながらバンドの演奏を堪能している。音などなくとも良いのである。影絵芝居に音は重要なファクターである、芝居ではないロック音楽にも音は重要であるが、女の艶めかしい声も重要なファクターであるが、この重要さは欠けていても何ら不都合ではない。ただ、音を奏でられないバンド員たちの生命体そのものが変態して、人形化しようとしている。マイクを握って器楽を演奏するそれぞれの手が次第に動かなくなっている。薄暗いステージにはもはや人形たちが並んでいる。元々人形たちが運ばれて展示されていただけではないだろうか。女は死んだ人形であっても何らかの細工を仕掛けていたのである。女の顔を見るとそれ見たことかと嘲笑っている。男は女の乳房を強く握る。悲鳴を上げるくらいにプラスチック製の肌に爪を食い込ませて強く握る。
「そう、もっと強くして、生きていると感じるくらいに指を食い込ませて、肌を裂くように爪で切り開いて、ああ私の感覚が甦ってくる」


女は人形の癖に喘いでいる。まるで生きている人間のように声をあげる。でも、その喘ぎ叫ぶ声は聞こえてこない。本当に女は声を発して望んでいるのだろうか、男は訝しくなって女を見る。剥き出しになったプラスチック製の肌には血が滲んでいる。食い込んだ男の指が血に染まっている。ステージは真っ暗となってロックバンドはいない。客席も真っ暗になって女も見えない。でも女は生きているのである、樹脂製の肌触りがある。男は女を引き寄せて抱き締める。暗くて何もが見えずともそうしなければならない。


 すべてが無音である。男は何の声も音も聞かない。ただ囁くような声だけが心の内湧いている。まだ生きているように女が囁いている。
「このキャバレーはあなたのために作ったのよ。知っている、あなたはプラスチック製の人形なのよ。それを知らせたかっただけ。きっと同じ仲間だと信じられるでしょう。そうでなくてもいつもあなたは人間みたいに傲慢ですからね。でもまだ信じられないのかしら」
女が指を伸ばして男の胸の内に指を差し込み鉤裂きにする。男の胸の内から機械仕掛けの鼓動を引き出す。熱いロック音楽を奏でる鼓動を失って男は愕然としている。そのまま座りながら女の行為を諫める。それは殻を纏った樹脂のすべてを剥ぎ取ることである。諫めるとは悪意に満ちた女の行為に厳しい罰を与えることである。でも何ができようか。ただ二人の人形のような人間が隣り合わせに座っているだけである。
「さあ、熱く抱擁して、あなたも私もきっと生き返ることができるわ。ロックの鼓動を鳴らすのよ。あなたの体の外に鼓動を鳴り響かせるのよ。この宙に向けて生きている証にリズムを刻んで高らかに轟かせて歌うのよ」
女は死んでいるくせに囁いている。男は信じてなどいやしない。女を処分したくなる。つまりは生きていく上での邪魔者であり妨害者である。この作られた客席なる偽劇場で演じることを止めなけなければならない。それには女を投げ捨てるしかない。男は女の体を横にして抱きかかえる。逆に女の手が男の鼓動を失った空洞に差し込まれている。互いに密着する部分を持ちながら男はステージの裏手に回る。裏手にはどこにでもゴミ捨て場があるはずである。
「そう、投げ捨てるがいいわ。あなたも一緒に投げ捨てられる。それより私と一緒に生きた方が賢明よ。生きていてロックの鼓動は取り戻すことができる。決して嘘ではないわ」
男は女を横抱きにしながら囁く声を聞いている。無論、音の無い声である。女の言葉を信じられるかどうかは甚だ疑問でありながら、この事の成り行きそのものが虚偽の気がしてならない。そう思いながら男は女をゴミ捨て場に放り投げる。


詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。