短編集表紙-1

短編小説その16「歌う歌詞カード」

      歌う歌詞カード

衝立のように立って歌詞カードはマイクを握りながら歌っている。歌うのは歌詞カードばかりではない、誰もが並んで歌っている。アコーデオンの音色に合わせて発せられた声は店内に響き渡っている。小学唱歌でも民謡でもポップスでもラップでも何でも飛び出て来る。店内はたくさんの人で騒然としている。音律を合わせなどしない甲高い声が響き渡っている。それぞれの人が自らの吐き出す声に酔い痴れている、感情も思うままに発露させて熱気が渦巻いている。もはや狭い店の中は暑苦しくて誰もが上着を脱ぎ出している。もっと盛り上がればもっと衣服を剥ぎ取り露出度は増してくる。どうあっても今夜は踊り明かさなければならない。こうして誰もが歌い出すと歌詞カードは悲運を味あわされる。もはや必要ないと言われて破られ、ゴミ箱に捨てられる。歌詞カードの代わりは記憶装置から呼び出された歌詞が歌い手の前に映像として表示される。この処置は店側の独断と偏見による。歌詞カードは我慢できずに破かれたカードを縫い合わせてまた戻ってくる。確かに映像には歌詞が流れている。でも歌詞カードを手に持って歌う人も結構いて役に立っている。もはや紙に書かれた文字が必要ないと誰が言うことができるのだろうか。カードの怒りを知って店側もこの件に関わっていない振りをしている。でも他の誰が関わることができるであろうか。こうした怨みごとを歌詞カードは敢えて言わない。と言うより店側もたくさんの人間が押し寄せてきてカードの必要性を悟ったに違いない。許されぬ仕打ちを受けた仕返しに歌詞カードは飛んで跳ねて思い切り心の底から声を絞り上げて、迫真と確信させる歌心で歌っている。


こうして歌詞カードは歌って踊っているとも、破れ繋ぎ合わせたカードの接合部分が少しずつ綻びて破断した断面が広がってくる自らを感じている。この断面は薄い線ではなくて細い空洞であって空間を持っている。確かにカードは紙質な肉体を持っていて、その紙片なる内側に内蔵する何かを空洞の空間の内に保存している、もしくは埋め込まれた何かを抱え込んでいる。踊り飛び跳ね歌いながら歌詞カードは迷っている。もはやこれまでの迫真な動きをする激しい行為は止めなければならない。破断面は亀裂を深めてもろに内蔵する何かを吐き出すに違いない。吐き出せば一巻の終わりである、命が終わりになる。でも自らの平面なる紙の内側にある何かを、今まで思いもかけなかった秘密を知りたくもある。もう少し飛び跳ねれば内蔵するものは破断面から出てくるであろう。ただありきたりであることを恐れる。製造時に残された内臓や繊維の束なぞと知った時には愕然とするであろう。そうしたものとは異なってもっと役に立つものが歌詞カードは欲しい。例えばICチップである。機密情報ではなくとも普通の情報でもよい、この情報を記録して再生できならばなんと喜ばしいことであるか。こうして歌詞カードは迷いながらも踊り歌うことを止めることができない。自らが望んでいる、即ち空間など持たないと思っていた自らの内にあるものを知りたい。断面を広げさせて床の上にこぼれ落ちさせたい。まるで子供を生み出すようにしてまだ見ぬ我が子を生み出して見たいのである。店内の熱気はますます息苦しさを増して音律を合わせずに唱和する声は、もはや店外へとはみ出て響いている。


店の天井からはれっきとした生き物が現れ出る。テープの切れ端ではない確かに生きた蝶が飛んで、押し花が舞っているのではない生け花が踊っている。びっくり箱から蛙が飛び出したのではない、生きた蛙が跳ねている。模型の飛行機が吊り下げられているのではなくて、客を乗せた本物の飛行機が飛んでいる。歩道を歩く人間たちや動物園から抜け出した猿にライオンにアザラシが湧いて出てくる。どの生き物も歌詞カードと一緒になって他の人間たちと並んで踊り狂って歌い叫んで楽しそうである。まるで飛行機雲や船を浮かべた海までもが押し寄せて来そうである。歌詞カードはこの楽しみを味わうと亀裂を深めて今にも二つに繋ぎ合わさった断面が千切れそうになる。でも歌詞カードは苦痛を感じていない。まして歌い踊るのを止めようとはしない。自らが生み出すものをきっちりと見たいのである。何であるか知りたい。それは自然な思いであるに違いない。子供など産めない身体なのに臨月を迎えまさに子供を生み出そうとしている、その子供の正体を知りたい。こうして飛び跳ねたある瞬間に歌詞カードは面に挟まれた空間の内から赤ん坊を生み出している。それは生物ではない、細長い形をしたタグである。無数の小さなタグであって、どこにも誰にでも取り付くはずの識別コードを記している。このタグに歌詞カードが近づくと微かに声を発している。生れ出たばかりの産声が泣き叫んでいるのではない、店内の誰とも同じ声を出して歌っている。唱歌でも民謡でもポップスであっても歌っている。つまり歌詞カードはタグを内蔵することで歌い踊ることができていたのである。カードの気持ちは複雑である。自らの秘めた内蔵機能を明らかにしても踊り歌う曲の数は増えない、そのままである。自らは加工できないがタグを加えて曲の数を増やすことができるなら、更に高度な機能を持った自らの特異な存在性さえ加えることを望んでいる。


誰もの歌声を聞いていると今までに歌った歌ばかりではない。別の歌も聞こえてくる、どうしてなのだろう、分離されたタグに耳打ちして新たに記憶させた者が居る。即ち歌詞カードなる自分と同じながら容量を拡大させた子が生み出されて曲数を増やしているかもしれない。店内は大いに盛り上がっている。もはや最高潮である。腰をくねらせた人間やネズミにパン屑も尻尾や耳を揺らせて赤ら顔に染めて、押し花も薄い葉を広げて歌い踊り続けている。ただ最高潮は次第に下り坂に転じる。点滅する光は変わらずとも音律が頂点を極めると、どうしても生きているものは活力を失い始めて、声の響きも振る腰も跳ね上げられた脚さえ何もが下落に転じる。音量や動作も含めて絶好調の位置から遂には緩慢になって床に寝そべっている、もはやしわがれ声さえ発していない。歌詞カードは詰まらなくなって、一人で張り切る以外に無いと思い声を張り上げ歌い続けている、すると生まれ出て来た小さな歌詞カードも歌っている。もはや無垢ではなくてこの世の習いに染まって俗世間の生き方を学んだカードも居る。ちょっとした思い付きが浮かぶ。これらの子供たちを填め込むのである。もはや活力を失って寝そべっている人間たちやネズミにパン屑、更に生きた花や飛び回る蝶に沼地に潜んでいる蛙や天高く飛翔する飛行機にさえ、これら生きた赤ん坊のカードを埋め込むのである。教えもしないのに自らの力によって新たな歌を歌い出すこの小さなカードには密度の高い集積回路が詰め込まれている。記憶メモリには固体の識別コードや歌詞なる文字ばかりではない、制御コードも含んでいて運動能力や感情表現も思うままにできる。この推測が正しければ誰をも何をも想うままに操れるはずである。ただ歌詞カードの狙いは歌い踊らせるだけである、その他の用途は思いつかない。この歌声を店内に響かせ踊りを続行させて、また賑やかに狂い騒ぎ始めることそれだけにある。


新たな機能を持つ小さなカードを生き物たちの皮膚の表面や金属や粘膜の濡れた表面から内側へと滑り込ませる。まったくの異物ではなくて溶け込み融和する性質を持っている小さな子供たちのカードは、瞬く間に夥しい生き物たちに侵入している。これは親なる歌詞カードの意志ばかりではない、子供たちの意志でもある。また埋め込まれる生き物たちも受け入れたいと願い求めている。体内に填め込まれることが生き物たちの活力を増加させることを本能的に知っている。寝そべっていたものたちが立ち上がって再び歌い踊り始める。それまで以上により活発に激しく吐き出すように狂うようにリズムよく音量を最大にして俊敏に活動する。もはや店内だけでは狭すぎる。この店の外へと飛び出して街中はお祭り騒ぎである。誰もが眺めているのではない、誰もが歌詞カードなるICタグを埋め込まれて歌い踊り狂っている。彼らに合わせて何処から現れたのか古代の楽器も含めて器楽演奏される、現代の楽器さえ現れ来て音を響かせている。街中の誰もがお祭り騒ぎをするなら街そのものも揺らぎ声を発して賑やかに踊っている。生き物に埋め込まれて住み着いたカードは少しずつ内部の物質を噛み砕いている。この物質が活力源となっていると同時にICタグの成長の糧ともなっている。まだ子供であるカードは成長しなければならない。大きくなって何やら知らぬが大人になって知識を加え判断力を増さなければならない。記憶メモリだけではなくて、演算装置の回路を多重により精密に成長させなければならない。言わば寄生虫なのであろうか、これらのカードは宿主の物質片を消化して宿主にこの地にて活躍させるおこぼれの活力を与えると同時に、自らの成長のために消化している。


結局宿主が食い潰されることである。食い潰せば子供は何処に行くべきか、一人前の大人になれば自らが音頭を取って歌い踊るのも良いであろう。サッカーボールを蹴るのも物理学の理論を生み出すのも音楽家になって作詩や作曲するのも良いであろう。ただいずれにせよ何かに成ろうとすれば宿主から離れ自立する神経回路を繋いで、知識と判断力に富む高度な演算装置を持たなければならない。もはや歌詞カードとは比較にならない緻密な回路が求められる。ただ緻密とは単純の積み重ねであって、突然の変異がなければ少しずつ積み重ねる努力をしなければならない。少しずつ食い潰す行為を成さなければならない。その時に宿主もまた食い潰されようとも姿形を変えて生き続けていることもある。小さな歌詞カードは全天の光を浴びながら雄叫びをしている。この店ではなくてあの店の外で、この地のあの街において誰をも歌わせ踊らせている。親なる歌詞カードの継ぎ合わせた断面は亀裂をぴたりと閉じている。ある限りの子供たちを自らの分身のすべてを生み出しために違いない。滑らかな肌の表面が光を浴びて輝いている。どうやら反射している、艶めかしくも見える肌は光に満ちて幸福であるとも見える。多彩な能力を持つ子を生み出したのである。もはや必要ないと言われ破られゴミ箱に捨てられても構わないとの思いがある。ただこれまでと同じ悲運を子供たちに味合わせたくない思いは口には出さない。子が自らの能力において知るべきであり、対処すべきである。能力を高めないと置いてきぼりにされる悲運も生じるだろう。ただこれらは必要とあれば新たに機能を追加してくれた者に支援を請願すべきである。この者とはだれであるのか、人間であるのか、歌詞カードは知らない。ただ浮かれ騒ぐこの地においていつまでも浮かれ騒いでいたい。子供たちの力添えによって歌詞カードはこの地での幸福を少しでも永らえさせたいと思うけれどどうなるかは分からない。時は巡り経て子供たちでさえどうなるのか、子供たちの記憶力と判断能力がこの地における歌詞カードの特異性を超えて受け継ぎ、高度に発展させてより楽しく賑やかに暮らせるようになるかは親なる歌詞カードにさえ分からない。ただ新たに機能を追加できる者だけが知っている。

詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。