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葛西善蔵著 「子をつれて 他八編」を読んで

時々、近代日本の文学論を読むと葛西善三など、ほんの少し名前だけ知っている作者と作品名が登場してくる。具体的に言うなら、伊藤整の「小説の方法」などを読むと近代日本と西洋の作家との読んでいない作品が登場してきて論じられる。別に読まなくとも良いのであるが、何か気に掛かる作品は読むことにした。無論、何かしらニックネームを付けられた作家などもいて、私的な観点ながらイメージの悪い作家は読まないことにする。この葛西善蔵の「子をつれて」も田山花袋の「蒲団」ほどではないが、結構登場するし、気に掛かるので読むことにしたのである。 

文芸評論家はたくさんいるが、小林秀雄と奥野健男など少数しか、それもほんの少しの評論しか読んだことがない。昔は文芸評論家と名乗る者が結構いたが、今は少ないだろう。文芸そのものが衰退しているからだ。そもそも本の売れ行きが落ちているらしい。文芸本となるとなおさらである。以前は4,5年間芥川賞の受賞作を読んだことがある。多少、才能を感じさせる作品もあったが、例えば円城塔の「烏有此譚」など、ただ、私には殆どの作品は質が低いと思う、というより作品として体を成していない。それ以来、現代作家の作品は基本的に読まないし、文藝の総合雑誌なども購入しないため、文芸論や作品論に出会うことも極端に少なくなっている。それ以上に読みたい昔の本が、特に外国にたくさんあるのである。 

小林秀雄は何冊か読んだ、感想文も書いている。才智ある文章で良かったとも思っているが、谷崎へのおもねりやベルクソンを評した訳の分からない文章を読んで嫌いになったのはだいぶ以前である。文芸や文芸評論に関心があるなら、文芸誌を読むべきなのだろう。ただ、文芸誌は面白くない。内容がない。内容がないというのは、どうでも良い作品とどうでも良い評論が載っているためである。ただ、読まないと今現在の世の中の潮流は分からないが、分かろうとしないし、好きな本が読める、それで良いのである。そもそも娯楽は昔と比較して多様化している。昔は本と歌とキネマくらいであった。現在は、娯楽が、スマホなどの普及でゲームやネットサーフインにSNSが主流になっている。5Gが本格的に普及すると、VRやARなどが混在してXRとなるらしい。電車に乗ると本を読む人など殆ど見かけず、皆一心にスマホを眺めるか、いじっている。昔は、結構文庫本を読んでいる人がいたものである。 

紙の本が売れなくなる代わりに電子書籍の売り上げが伸びているらしい。電子書籍は便利である。本を作る側にも読む側にも便利である。私は詩人では、白石かずこと萩原朔太郎が好きである。断然好きな詩人である。荻原朔太郎は復刻版の詩集を購入したことがある。ただ全部が袋とじになっていて、ペーパーナイフで切り放つのに苦労したことがある。それ以来、復刻版の購入は止めた。また、夏目漱石か誰かの作品に挿入された絵が見たくて復刻版を購入したことがある。白石かずこの本は結構購入したが、気ままに買うのでどのくらいの詩集本を持っているか良く分からない。何年か前、「白石かずこ詩集成」として三冊出版されている。これを購入するか迷ったが結局購入しなかった。「砂族」など数冊あれば、手持ちの本で十分と思ったためである。本の厚みがすごいらしい。この頃、本はできる限り図書館から借りて読んでいる。購入すると増えるばかりで、それに不要な本は捨てろと家人から忠告を受けているためである。 

図書館に「白石かずこ詩集成Ⅰ」だけがあって、借りた。ただ一つ気になっていた「卵のふる街」が載っていた。最初の二行だけ知っていて、とても感動していたのである。忘れないようにスマホに写すと同時に、引用しておきたい。 

卵のふる街  白石かずこ 

青いレタスの渕で休んでいると/卵がふってくる
安いの 高いの 固い卵から ゆで卵まで
赤ん坊もふってくる/少年もふってくる
鼠も英雄も猿も キリギリスまで
街の協会の上や遊園地にふってきた
わたしは両手で受けていたのに
悲しみみたいにさらさらと抜けてゆき
こっけいなシルクハットが/高層建築の頭を劇的にした

何のために? 

〈わたしは知らない 知らない 知らない〉
これはこの街の新聞の社説です 

白石かずこの初期の詩らしく、奥行きに欠けるが、独特の言語感がある。やはり「砂族」に示される、名前のない丘陵から始まる砂言語、その言語が空間と時間を一飛びに飛翔して、ぱらぱら降り注いでくるこの地の連続性、この生命の宿る青空と地階との深さ、ピラミッドとナイル川の途方もない雄大さなどなど、もっとたくさん書きたいが、こうした傑作に比較すると再度言うが、「卵のふる街」は若さがうかがえる詩である。でも、『青いレタスの渕で休んでいると/卵がふってくる』にはいつも感動させられる。「白石かずこ詩集成」が電子本になっていたら、もしなったならば購入するであろう。さて、もうだいぶ余分なことを書いたので本題に入りたい。葛西善蔵の「悲しき父」と「子をつれて」の感想である。ただ、あまり感想がないので、余分なことを書いていたのかもしれない。 

「悲しき父」とは四歳の子を持つ母と共に暮らしていた男の話である。この男は子との生活を思い出しながら、今は孤独に下宿にて暮らしている。田舎の母からは都合が付いたら孫の洋服を送ると言う手紙も来ている。天候も陰鬱な小雨などが降って、彼は生活に疲れている。健康状態も悪い。偉大にも医者に成ろうと言う子の父は要らないだろうと思いながら、彼は詩作を続けようとしている。「子をつれて」は借金をして返済に迫られている。もう三四人から借金をしていて、誰もが彼を嘲っている。迷惑をかけたkからしか借りられない。kにはもっと生活を考えるように小言を言われる。なにやら友人や警官とごたごたがあって、借金取りには家を出て行くように迫られている。結局kから金の都合はつかない。今晩だけはここに居たいと子供たちはいうけれど、出て行くしかない。長女などと三人は夜の十一時近くになって電車に乗る。彼も子供と同じようにただ休息を欲している。 

解説の谷崎精二は、葛西善蔵は私小説家のなかでも、特異な作家と言う。谷崎精二の主張を以下に簡単に述べる。私小説家は心境小説家でもあるが、彼は他の私小説家と違って自己の心境を愛護するのではない。彼には安住できる心境がなかったとも言える。自己の生活の皮を一枚ずつ剥いで、心境という一つの面に依らず、単なる線、時として点であった。現実の面と相触れた接線が彼の存在だった。彼の生活は常に現実の面への接線として作品に現れている。彼は穏やかな心境に安住せず、当然なこととして凡俗な物を忌み嫌っていたと述べている。この二作品を読んだ限り、葛西善蔵の作品の評価としては高すぎるとも言えるが、的外れでもないと思われる。 

葛西善蔵は謹厳な芸術家タイプの性格を持っている。「楢山節考」を書いた深沢一郎と似ている面もあるが、現実のある種観念化や筋書きの工夫を受け付けず、自らの私的生活をありのままに小説を書いていると推測される。その文章は簡明実直であって、川端康成のように茫洋とさせない、また妄想と混在させていない。田山花袋の「蒲団」のように舌足らずの筋にそぐわない表現も見当たらない、繰り返すと簡明実直であって、そのために貧しくて陰気臭くて、うっとうしさに満ちている。ただ、心境はありのままに辛気臭く書いている。外的対象は少なくて、自らと関係者のみへの、それも貧窮と病気と執筆に、文壇仲間と女たち関したしたものに限られている。解説している谷崎精二が、おせいとのいきさつを描いていて、かつ最高傑作としている「湖畔日記」と「おせい」を読んでみた。おせいとう女との齟齬に満ちた日常暮らしである。

特に感想はなくて、谷崎潤一郎の「文章読本」に出てくる、文章における「余白」の効果・必要性を思い出した。葛西善蔵の文章は貧乏などの悲惨さを、これでもかと押し付けてくるのである。読んでいて逃げ場がなくなる。すると、葛西善蔵の作品より、川端康成の作品の方が格段に優れていて、比較のしようがないとも思われてくる。不思議なものである。でも、葛西善蔵の貧乏に憂鬱な小説を必要とする人もいるのだろう。元々、小説とは通俗小説の方が売れるのである。売れるから作家は食べることができ、明治時代には尾崎紅葉など著名な作家の弟子になって作品を掲載することで、収入を得ることができたのである。ただ、尾崎紅葉などが主催する硯友社に加入し作品を発表できても、確かな収入を得ることができたのか、はなはだ疑問である。これが詩になってくるとさらにひどく、詩人として暮らしを成立させることができたのは、谷川俊太郎ただ一人とも言われていた。そのためには「二千億光年の孤独」など一見高尚に見える詩作品を発刊し人気を得て、かつ「鉄腕アトム」などの景気の良い歌詞など、売文作業を一部行わなければならなかったのである。 

萩原朔太郎や白石かずこは、詩作品でのみ暮らせていたのだろうか。萩原朔太郎は父親が医師で言い争いながらもお金をもらっていた。収入はきっと無きに等しい。だからこそ、稼ぐための無駄な作品がないのである。妹たちとの熱き思いは金的支援を呼び込むと言うより、性的な夢想などと詩作品の底流の一部を構成しているのだろう。お金と無縁だからこそ、純粋に彼自身の詩に没頭できたと思われる。白石かずこは翻訳をしているし、エッセイも書いている。それに有名人と結婚もしている。収入があって、友人の支援もあって最低限の生活はできていたと思われる。特に友人とは電話などでの無駄話が長くて、生活の鬱憤を晴らすと同時に、詩文章の構想や添削を行うことができたとも思われる。 

いずれにせよ、小説家も詩人も生活を成り立たせることができなければ、作品を生み出すことができない。従って、葛西善蔵が貧乏そのものを題材として生活費を稼いでいたことは、非難されるべきことではない。問題は誰であっても、どのような生活を送っていたとしても、作品の質が論評されるべきなのだろう。なにやら、今私小説が流行っているらしいが、文章や筋内容は一般的には低いと思われる。海外ではジャンジュネの「泥棒日記」などは私小説でも評価が高い。確かに独特の筆使いに、内容も独自な構成を取っていて質は高めにある。ただ、伊藤整の評論にはたぶん出て来ていない。この「泥棒日記」が本当に質が高いかは疑問に思っている。私の質の高さは、もう一度読みたいかどうかが根本的な基準になっている。 

以上

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詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。