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散文詩「首を吊った太陽に蛇や女」その29

   女の生首

 やっとのことで見渡すことができる。瞳を縫い閉じられて、あなたは見ることができない。きっと誰かが見ることができるのだろう、この宙に女はいない、きっと死んでその肉や骨は溶けて、揮発し細かな粒子として拡散した、この広い宙のあちこちに散骨するようにばら撒かれたのだろう、誰にと問うことなどしない。きっと誰もが覗き見し、誰もが勝手に捨て去ることができる。意志さえあれば、行為を成しさえすれば、何をもできると信じている、きっとそう思いそう行為する誰かが居るに違いない。この広大な宙には誰もが居ないのではなくて、誰かが居る。意志を持つ誰かが、確率的に存在する誰かが、消えたはずの誰かが居るのである。


 そう思いさえすれば見渡すことのできる視線は単数ではなくて、きっと複数にある。思いや意志の異なった識別できる複数の個体が、それぞれ別の異なった事象を別の空や別の宙に別の女さえ見ている。複数の視線が首を吊り下げたあなたや、干瓢の紐のように長く伸びた蛇の死骸を見ている。数多の死んだ蛇や死骸が視線を放っているのかもしれない。瞼を糸に縫われなければあなたも視線を通じて見ることができる。きっと女はあなたを恋慕っている、心も体も慕い望んでいる、あなたの甘い息を、強い心と強靭な体に、今はたった一本の細い糸だったとしても、そうであった昔や糸としての尚も未来のあなたの確固とした姿への変貌を望んでいる。


 もしや視線だけがある、この宙には物質を透過する波の音が聞こえてくるのではなくて見えてくる、この波こそが覗いている。太陽の発する光も含めて透過すると同時に遮断される粒子の波が覗き込んでいる。きっと女は恐れていたのだろう、あなたの視線に露わに覗かれることに、この艶やかな肉体ではなくて白い肌の肉の内を、啜り飲み込んだ数々の混濁物が肉の内から吐き出されて作動する開始と終焉とが、この宙が始まると同時に終りを告げる、ベルの合図ではない光の波長のスペクトラムの赤裸々な波動の本質を、決して女はあなたに見られたくなかったのである。


 そして女は隠れたのではない、死んだのである。もろもろの膨大な物質を胎内に抱え込んだまま、太陽の中に溶け込んだのである。この宙ではない、太陽の内に散骨したのである。自らの死を希望したのではない、この宙の生と死を希望しなかったのである。あなたに見られ覗かれ抱かれたくなかったのである。愛するが故に恋焦がれるが故に、大いなる空洞の肉体を、汚濁で満ち満ちた胎内を、愛さえ不確定な心を焼却し消し去るために、この宙を行為させないシステムとして不完全なままに捨て去る、この宙の可視的な生や死に関与しないために、走り来る電車に飛び込むように、閃光が放たれる太陽の光の渦の中に飛び込み溶け込んだのである。


 もう一本の紐となって吊り下がっているではないだろうか。粒子ではなくて紐とするのは、この宙の無意志な慈悲である。女はあなたから遠く離れた天の頂の向こう側に吊り下がっている、なんて言うことか、女には首がある、妖艶な生首がある、哀れな生首が髪を乱して紐にぶら下がっている。滲んでいる涙が、滴りもしない涙が白目にこびり付いている。乾き蒸発もせずに悲しみの痕跡を残している。これは誰の意志でも思いでもない、あなたの望みでもない、女がこの宙の母となることを拒絶したためである。あなたへの切ない愛よりも強い拒否の思いが選択した結果である。誰もが覗いている、天の頂にはもはや糸や紐など霞んで見えずに、女の生首だけが浮いている、生きているように見える、その生首を、あなたではない誰かが誰もが覗いている、じっと凝視しているのである。

詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。