首を吊った太陽に蛇や女_-_コピー

散文詩「首を吊った太陽に蛇や女」その20

 飽和した女

 飽和している身も心もお腹さえ満腹であって、決して飢えているわけではない。でもどこの誰が飢えずに満たされていると言うべきか。果たして誰の身や心の満足度を知りえるだろうか、そんなことできるはずがなくて言うべきでもない。誰もが何もが知りえない。飽和しているために反って吐き出さなければならない、諸々の事物や生き物を、まるで新たに生み出すように、胎内や胸の内から吐き出して身軽にならなくてはならない。閊えると簡単には吐き出させてはくれない。いったい何が悪いのか、女は悩んだりしないが喉や腹や胸に指を貫通させて探りを入れる。きっと巨大なものが秘密に胎内に隠れ潜んでいる。


 きっとこの宙のように大きなものである、この宙そのものであるのか、指先はすんなりと胎内に埋もれるが何にも触れはしない。通路は確保されているがその奥には何もが無いのである。どうしたことなのだろうと特に女は考えたり苦しんだりはしない。満たされていればそれでいいのである、満腹なる飽和の閾値を超えて蓄積されたものは必ず吐き出されるからだ。満杯になった水槽から水が流れ出るように自然に吐き出されて行く、どこへか行き先など知らない、ただ廊下を流れて地の底に潜り込んでいくのか、それともこの宙を当ても無く彷徨っているのか。でも何も食していないのに、なぜ身も心もお腹さえ満腹になるのか、女には分からないが気にもかけない。


 女のように何も考えないことは詰まらないことかもしれない。膨張した空がもしや空虚そのものが詰め込まれている可能性もある。満腹だと思っていたことが間違いであって、本当は空っぽであって飢えているかも知れず、考え出せば切りがない。感覚的な齟齬などどこにも転がっている、まるで死人のように感性はあちこちに転がっていて気にすれば切りがない。ただこの異常とも思える満腹感は、お金もないのに高級料理をたらふく食べた罪悪感を引き摺り出してくる、それも決まりきったことで、常に罪を感じ得るはずであるが、依然女は何も考えてはいない。この宙を流れる尾を引いた美しい星の流れを、銀河の流星群を眺めて楽しんでいる。


 飽和の閾値を減少させるべきなのか、女は素知らぬふりをしながらぼっと宙に横たわっている、満腹感とは恐ろしいもので身を滅ぼしてしまうのを知らない。きっと少しずつでも吐き出してこの空疎な宙の内に、巨大な空虚を吐き出さなければ、身も心もお腹も浮腫んで破裂するのを知らない。女の胎内には恐るべき空虚が、もしや実体を持つ存在物であっても、閾値を超えて否応にも死んだ人間を詰め込むように押し込まれていれば、にっちもさっちも行かなくなって女自身の体を、そのしなやかに艶っぽい体を、風船玉のように破裂させるはずである。この女が色っぽい目をしてあなたをじっと見ている。


 あなたには関わりないことであっても女が本能的に巻き込もうとしている、この違和な感覚は女の目が色っぽいというより白いのである。蛇の目のように冷ややかなのではない、一切の意志や情感を欠いてただ白く見詰めている。覗き見ればあなたは気が狂いそうになる、女の腹を撫でる姿は巨大な空虚そのものである、きっとそうであるに違いない。何がって、女は昔話の老婆のように死人を食べている。この死人をたらふく飲み込んだ腹は常に満足気ににんまりと笑いながら、白い目から色目の炎を噴いて、口からはごく小さい卵のような粒子を吐き出している。それは毒キノコが吐き出す無性生殖の大きな胞子に似て、繁殖力が強くてあっという間に増殖してしまう生き物である。このように女は満腹感を微妙に調整し、お腹が空くと色目を使ってまた生き人や死人を食べるのである。

詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。