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題:モーリス・メルロ=ポンティ著 菅野盾樹訳「知覚の哲学 ラジオ講演1948年」を読んで

モーリス・メルロ=ポンティの名前は知っていたが、この著作物を読むのが彼の著作物を読む始まりである。本書を読むと、彼の思想はなかなか良いと思う。彼の一番有名な著作物は「知覚の現象学」である。知覚を通じた心身の存在論である。フッサールの現象学の影響を受けて解明している。レビィナスの「実存から実存者へ」に匹敵する、それ以上の存在論であるかもしれない。ハイデガーの「存在と時間」は有名で広範囲に影響を与えている。この本をベースに思考している哲学者も多い。だが「存在一般の意味」を解明できなかった。途中で挫折した本である。無論、ハイデガーの倫理性を問題にはしていないが、倫理性を欠いた人間がハイデガーである。なお、木田元は「存在と時間」に対するハイデガーの大いなる野望を描いていたのにとても興味を引かれた。いわば「存在と時間」が書かれた真の狙いを解説している。それは西洋思想の転倒である。この木田元の著作物はどこかに転がっているかもしれない。

モーリス・メルロ=ポンティは若くして、53才にて死んでいる。残念である。サルトルなどは年老いた姿を愛人であったヴォーボアールによってさらけ出されている。メルロ=ポンティが老いてぼけずにすんだことは良いことかもしれない。本書は彼のラジオ講演の草稿に手を加えたものである。訳者の解説によると「思考の形成」を主テーマとしているとのこと。ただ、ラジオ講演のためか簡潔過ぎて分かりにくい、それを訳者菅野盾樹が注釈として補いメルロ=ポンティの思想を解説している。それが的確で分かり良い。このためメルロ=ポンティの思想が納得できる。メルロ=ポンティはサルトルと同期で、親交や離反などがあったらしい。ただ、これらは自らの思想に基づいた結果として生じたものであり、それぞれの思想の核心を押さえれば良いはずである。ほぼ、殆ど読んでいる哲学者は、スピノザ、ベルグソン、ドゥルーズの三人だけであるが、、レヴィナスやデリダにフーコーなどは結構読んでいるし、一冊だけなら結構な数の哲学者の著作物を読んでいる。メルロ=ポンティも、全冊読書制覇に加えたいものである。ただ、彼の評価は低いのか文庫本で出版されているのは少ない。単行本は大きくて訳も分かりにくく読みにくい。少しずつでも読んでいきたいものである。

本書「知覚の哲学 ラジオ講演1948年」は七つの講演からなる。それぞれの講演の題目の紹介と必要がある場合には、その内容をごく簡単に示したい。なお、講演ごとに訳者菅野盾樹の注釈が付いている。この注釈が、先にも述べたが講演内容を超えてメルロ=ポンティを中心に添え、哲学や芸術など広範に付け加えて解説していて、もしや本書はこの訳者によるメルロ=ポンティの解説・紹介本とも思われる、というよりそのはずである。

第一章 知覚的世界と科学の世界
「知覚」と「感覚」では「知覚」が上位概念である。知覚はメルロ=ポンティにとって人間の存在形式の基本的様態なのである。本章ではデカルトの論じた蜜蝋を取り上げ、科学と科学哲学が感覚知覚を正しく評価しないといけないと述べている。なお、蜜蝋は物質の「力」であり、物質の実在的で恒久的な核であると述べている。また知覚と科学の関係は、現象と実在との関係とも述べている。


第二章 知覚的世界の探求――空間
現代絵画を取り上げて論じながら、知覚領野の自然な特性と肉体を持ち地上を移動しなくてはならない生物を等質的な空間ではなくて、異質的な空間の観念によって理解しなければならないと述べている。異質的空間とは人間が世界に投げ出されている状況であり、人間は精神プラス身体という存在ではなく、身体に具現した精神であるという考えに至る。たぶん、メルロ=ポンティの思想の核と思われる。置き去りにされていた身体性を、特に知覚をメルロ=ポンティは思想に取り入れているのである。


第三章 知覚的世界の探求――感知される事物
受肉した主体の私と外的対象とのやりとりが基本となる、即ち対象は私たちにある種のふるまいを象徴するものであり、私たちにこのふるまいを想起させて反応を惹き起こすものである。訳者の注釈ではサルトルの「対自」と「即自」の思想を引用してこの辺りの考え方を詳しく論じている。


第四章 知覚的世界の探求――動物性
私たちが生きている世界は単に事物と空間から作られているのではなくて、生物と言うある種の物質的断面が、事物に関する固有な臭覚を描き始めているのである。動物が世界を形態化する力の中心にいて、その動物には行動という属性がある。こうした動物世界の光景を視覚として得ることができるのである。


第五章 外部から見た人間
私たちは他者との経験のうちに生きているのであり、このふれあいの後に実存の感覚を持つのである。人類は個人の総和では無くて、互いに理解しあうことが保証されているわけでもない、人類は原理的に不安定なものである。そして、社会における相互関係とは主人と奴隷の関係である。


第六章 芸術と知覚的世界
絵画や詩などの芸術に関して述べている。絵画は世界の模倣ではなくて、それ自体が世界なのである。詩においては観念の表意作用や意味機能ではなくて、詩句に表わされたものとは、眼差しに現されるような方法と同等なものである。また小説は可感的な事物、運動状態の事物なのである。セザンヌやマラルメなどが登場する。


第七章 古典世界と現代世界
現代思想は未完成であり両義的であるという二重の性格を持っている。ものごとが単一の語で名づけられるのを拒むような状況にある。ソ連邦の経済的・社会主義的制度が一貫して解釈されてきた社会主義制度と解されないし、むしろ社会主義から人間的意味が剥奪されるであろうことも真実であるとも述べて、政治的状況の両義性について述べている。

以上

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詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。