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散文詩「首を吊った太陽に蛇や女」その28

    吊り下げる糸

 太陽は照り輝いている、この宙に変わらずに光の色を送出している。光の粒子をわずかずつ増やして燃えている。どうしても燃え尽きようとしているのか、内部の空洞を徐々に拡大させて崩壊過程をたどっているのか分からないが、重なったの層の色の光がこの宙を埋め尽くすように伝わっている。そして、蛇はとぐろを巻いて立ち昇っている、一本の紐である。確かに蛇は長く伸びた太陽のフレアーのように閃くと同時に天に向かって伸びている、まるで色を染めて発光している線虫が無限に伸びているとも見える。龍ではない細い糸が、この宙の頂に向けて波のように揺れながら昇っているのである。


 きっと蛇は女との関係を絶ったのではない、その肉と骨が溶けて合体した体が、溶液となって溶け出した肉体が別個の肉を持つ体として分離したのではない。溶け交わった肉が新しい線種を生み出したかもしれず、交わった際に放出された蛇の精虫が長く伸びているとも思われるし、女が光の渦の中から新しい糸を捕えたのかもしれない。いや女の溶けた胎内から生きた一本の蛇として無理やり形整えられ、引き摺り出されたのかもしれない。いずれにせよ事実は確かではないが、揺らめいて昇っていく紐もしくは糸が在る。良くは分からぬが天の頂に向けて、昔蛇だった者の名残の思いが昇っているのである。


 女はどこにも居ない。きっと誰も知らないその行き先は、空虚な空洞、どろどろした岩礁の溢れる胎内、がらんどうの子宮、産まざるを得ない子供たちで満ちた体内、泣き声と嗚咽の響き渡る裂け目、粘液となって流失した体、何ら形も肉もない虚ろな体、艶やかに白い肌、溶け込みたくなる裸身、これらのどの言葉でも形容できるこの女が、この宙の奥に居るはずだと思ってしまう謎は、糸となって昇り続ける蛇がその鍵を握っている。蛇は首を巻いて天の頂上から吊り下がっている、確かに紐が紐をもしくは糸を吊り下げている、蛇はあなたと同じように死んで揺れることもなく、一本の線として吊り下がっているのである。


 なぜともどうしてもとは言わないが、溶け交わった蛇が死んで女は死んでいない、蛇が吊り下がって女は天の頂から吊り下がってはいない。女はただひっそりと隠れて沈黙している、何をも飲み込んで解体している、死んで消え去っているこの宙から、黄泉の国とは言わずに、この宙の奥からこの女が流している粘液は女が滴らせた淫水である、それが粒の子なる波となってこの宙に溢れ出ている、燃え盛る太陽の内に溶け込んだ女の流した涙の切れ端なのだろうか。なぜとは言わないが、女が死んでいても体など消えていても、天の頂からその白い艶な顔を乗せた首を揺れるようにぶら下げていなければならない、でも決して吊り下がってはいないのである。


 きっと蛇はそうと望んでいる。望んでいなくとも伸びた糸も含めた自らの全ての物質を、刑を執行された死刑囚のように吊るすのは、この宙の願いでもあるはずである。この宙の頂には、死んだ者たちも蛇やあなたも含めてどうやら細い線や糸となって吊り下がっている。まるで干瓢の果肉が剥かれて白く細く長く伸びているというより、ただ細い糸だけがある。透明なもしくは半透明な糸だけが煌めいて、無数の光の線のように伸びている。この頂に昇り立ての青い硝子玉や死んだ女の白い首も吊るされていて浮いているように見える、それはあなたの錯誤であって正しくはない、女の首などなくて夥しい一筋一筋の光の糸だけが吊り下がっている、数え切れない透いた糸が吊り下がって、この宙の空間に長く伸びているだけなのである。

詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。