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トマス・ホッブズ著 角田安正訳 「リヴァイアサン 教会国家と政治国家の素材、形態、権力」を読んで

トマス・ホッブズは16世紀生まれのイギリスの政治哲学者である。『人間同士は闘争状態にある』という思想が有名である。当然、国家を構成する人間の関係が論じられている。ざっと読んでみるとホッブスの思想は分かりやすい。というり、論旨を除いた子細な点は読み飛ばしているためかもしれない。この「リヴァイアサン」を読んでみると、数学的な論理で記述したスピノザを思い出す。スピノザは1632年生まれだから、1588年生まれのホッブスの思想は、スピノザの他にもロックやルソーにライプニッツにJ・S・ミルなどに、近代国家概念と権力や社会契約と人間の関係を論じる初期の思想として、彼ら以外の多くの人にも影響を与えているようだ。「リヴァイアサン」という言葉が面白い。「リヴァイアサン」とは旧約聖書のヨブ記などに出てくる怪物のことらしい。ヨブ記はずっと以前に読んだことがあるが、神に対する信仰を確かめられ、故意に神から苦しめられたヨブが、それでも神への信仰を捨てなかったことを思い出す。この物語のどこに出ていたのか、リヴァイアサンなる怪物を思い出さない。結局、神への信仰を捨てずに神から恩寵を授かったヨブのハッピイエンドな結末だけが思い出される。 

さて、本書は二部に分かれていている。第一部では「人間について」と題して、全部で十六章ある。人間の感覚やイマジネーションから書き始めている。スピノザを思い出すのは、公理や定理ではなくとも、例えば短い、〈虚勢〉、〈優れた判断力〉などの題を付けて話の流れを分かりやすくしていることだ。詳細は知らないが、原文もそうなっているのだろう。感覚やイマジネーション、意志に論理的思考や行動様式などは、彼の後の哲学者たちが結構論じている問題でもある。つまり表題の通りに「人間について」、人間の心と身体の本質的な在り様を説いている。更に進むと人間に付随する権力、価値、位階、毀誉などについて述べている。権力には本来的な権力と、もう一つ手段としての権力があると言う。なお、権力とは好ましいと思えるものを将来獲得するに必要な、今持ち合わせている手段である。本来的な権力とは生まれつき秀でている能力のことである。あらゆる人間にはやみがたいこの権力欲があると言う。つまり成就するための手段としての権力を求めているのである。 

ホッブスは各章の内に更に細かく< >付きの表題を示し論点を明確にしている。もしや、この表記は訳者の工夫かもしれないが、この短い題がホッブスの洞察力の深さを示している。例えば、<競争すると人は闘争へと傾斜する>、<安逸を好むことから生じる政治的服従>、<信仰心が自然に湧く原因―将来に対する不安>、<異教徒の、道理に合わない見方>などなど。この短い題名を並べたるだけで、文書の全体の論旨が見えてくると同時に、ホッブスの思想の大枠も見えてくるのである。 

さて、章を飛ばし「題十三章 人間の自然状態―人類の幸不幸に関わるもの」は重要である。最初に、<人間は本来平等である>と述べている。ただ、<平等であると、猜疑心がつのる>、そして〈猜疑心がつのると、戦争が起こる〉のである。つまり最初に述べた『人間同士は闘争状態にある』ことになる。この論理は一面で真理である。なぜなら戦争にならないこともあるためでる。ただ、この論理を受け入れないと先に進むことができないため、ホッブスの論理に従う。このため〈国家が存在しないと、万人の万人に対する戦争が絶えない〉ことになる。だれをも畏怖させるような権力を欠いたまま生活していると、人間は戦争状態から抜け出せない。つまり、人間は敵愾心、猜疑心、自負心によって紛争の原因を生み出し、侵略をする。戦争を行うのである。それぞれ、利益の獲得、安全の確保、名声を得ることが目的となる。ただ〈継続する戦争状態に起因する不便〉が〈人々を平和に向けて後押しする感情〉を生み出してくる。長く戦争を続けられないのである。ホブッスの論理は明快である。このように人間は放っておくと、自然状態とある言っても良い、結局戦争をする。これがホッブスの大前提な思想である。 

この人間は戦争をする思想とは、「第十四章 第一、第二の自然法および契約について」で述べているが、<自然状態にとどまっている限り各人は、あらゆるものを自由に扱う権利〉を有するためである。つまり、人間の自然状態とは、先ほど述べた万人の万人に対する戦争状態に他ならない。このことから<基本的な自然法>として、自らの役に立つものを活用して平和を守り我が身を守ること、力の及ぶ限り我が身を守れ、そして<第二に自然法>として、他の人の同調が得られれば、あらゆるものを自由に扱う権利を放棄する、自分の自由の限度を甘受するのである。あくまでも他者から同調によって、自らを危険にさらすことなく権利を制限して戦争状態から逃れることができるのである。こうしてホッブスは、権利、その権利の放棄、義務、更に契約や無償の贈与に関して詳しく記述している。この契約の概念が後の社会契約の思想に繋がっていると推測される。 

「大十五章 その他の自然法」では、<正、不正>や<人間の正しさとはなにか、行為の正しさとはなにか>など、自然法として、千差万物の人間が守るべき態度や行為について、例えば傲慢さや公平さについて述べている。そして<自然法を対象とする学問こそ、真の道徳哲学である>と述べている。「第十六章 人格、本人、人格化されたもの」では題名の通りに、人格、代理人と本人、契約、それに単なる想像の<偽りに神々>、<モーセなる人格化された<真の神>に続いて、<代表者に権限を委任するのは各構成員である>など委任も含めた契約が述べられている。それにしても、簡単な論理でありながら何度も言うが、ホッブスの明晰さが表れている。つまり、人間の本性、性質、感情の基本的な作動を基盤として、国家なるものの形態や権利を定めようとしている。 

特に重要なことは、社会科学、特に経済学などが最適な社会構造を論理的に解き明かして実践した時に、この人間の本性、性質、感情が思わず邪魔し横やりを入れてこの論理性を破壊してくるのである。このために、政治経済学は何度か、すべての人間を幸福に導く論理を獲得したとして実践しながら、しっぺ返しなる痛い目に、幾たびも、会っているのではないだろうか。つまり結局は、社会構造を構成する人間は、時を経ても変わらない性質というより本性を持っているのである。何世紀も隔たった世界の状況、国家、経済、交易、紛争には必ず人間固有の性質がこびり付いて乱暴な行動が生じ、混乱し多くの血を流させる歴史を作り上げているのである。 

第二部では「国家について」と題して論じている。<安全をはじめとする国家の目的>とは、生得の情念がつきまとう限り、人間に必ず発生する悲惨な戦争状態から抜け出せるということができない。ただ国家の中で暮らし国家の束縛を受けることで、悲惨な戦争状態から抜け出せる見通しが立つと言うことである。国家とは主権者であり、一個の人格である。この第二部では、この国家の種別と継承を初めとして主権者、臣民など、それに公民権や犯罪などについて述べている。結局簡単に言うと、国家の庇護を受けて人間は自らの身を守ることができる。なお、国家には君主制や民主制などがある。本書の解説で角田安正は、ホッブスは君主制よりも少し民主制の立場に寄っているのではないかと述べていたと記憶しているが、私にはどちらに寄っているというより、ホッブスは臣民を守る主権者であればどちらでも構わないように思われた。ホッブスにとって人間たちの戦争状態を抑止する国家の役割こそが大切なのである。 

なお、当然、国家を一人の人間と見ることができる。国家が人間のように振る舞い戦争を起こすのである。この戦争を抑止するには、より強いこの宇宙の絶対的主権者が必要なのではないだろうか。例えば、「孫悟空」に登場するの神様のように絶対的な存在である。そうした神さまが居なければ、戦争状態は治まることがない。人間の情念と同様に国家も情念を持っていて、この情念とは自由や民主主義、社会主義などの概念ではないことが大切である。情念とは思い込みの怨念でもある。こうした情念を国家が持っていると認識することが、国際政治では大切である。ここから国際政治の学問は始まるのである。ざっと読んだ「リヴァイアサン」の感想文は言葉足らずであったが、この政治論理における情念を持つ国家を、最後に強調して終わりにしたい。「リヴァイアサン」は再読したい良書である。 

以上

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詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。