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題:サミュエル・ベケット著 安藤信也訳「モロイ」を読んで

ずうっと以前から「モロイ」を再読したくて、でも、集めた全集には欠けている。探すと三輪秀彦訳の「モロイ」が出てきたが、引っ越しの時に水に濡れたのかよれよれになっていて、安藤信也訳の「モロイ」を入手する。ずうっと以前に読んだ時には随分感動したものであったが、今回は好いと思いながらも、それ以上でもそれ以下でもない。「モロイ」より「名ずけえぬもの」や囚人たちの拍手喝さいを受けた戯曲「ゴドーを待ちながら」などの方がベケットを確かめるためには良かったのかもしれない。

「モロイ」の筋は前半と後半に分かれている。前半は、モロイの不分明な混濁した意識の流れを記述している。モロイは片足を硬直している。母の年金をせびりに行くのが常であり、松葉杖を使いながら自転車に乗っている。警官に不審がられ一悶着が起きる。町に向かうと自転車が犬にぶつかり殺してしまう。この飼い主ラウスとは恋仲になる。死んだ犬はラウスが埋める。ルースもしくはエディスとは性的関係がある。石をしゃぶるのが好きで16個の石を4個のポケットに入れ、順繰りにしゃぶる方法を考えたりしている。モロイはまた徘徊し、母に会うために町に行こうとして、森を抜け出ようとする。ただ、歩行を諦め休息するために腹這いになる。誰かが救い出してくれることを待っている。

後半では、通常の一人称の小説形式ながら明晰に記述されているが、前半と同様に次第に不分明な意識の流れの記述となる。モランと言う調査員がゲイバーの伝達を受け、モロイの追跡の仕事を命じられる。嫌がる息子ジャックとともにモランはモロイを探し始める。ジャックに自転車を買いに行かせる。膝が痛んで来る。野宿したキャンプの傍らで何やら男と会う。その男を探している男にも会う。もう金もなくなり、膝も硬直してモロイみたいになり、やっとのことでモランは自分の家に戻る。息子ジャックは戻ってくる。モランは仕事を依頼したユーディ―へ報告書を書き始めるのである。

サミュエル・ベケットに関する評論も何冊か読んだことがあるが、当然、挫折の芸術とか言語の沈黙性、言語の放棄、意味にざわめき語に達しない沈黙、空間と時間の変貌、人称の欠如もしくは混沌、などなどと評論されていたものである。ドゥルーズは「消尽したもの」として、ベッケトの作品を称している。まるでドゥルーズ自らの身体と重ね合わせたような題名である。この「消尽したもの」の本を探したが見つからない、そこで「批評と臨床」を読むと、第4章「最も偉大なアイルランド映画――ベケットの「フィルム」」では、存在することは知覚されることであれば、どうやって知覚し得ぬものになればよいのかと問いかける。知覚されることには恐ろしいことが含まれているのであり、行動、知覚、触発の各イメージを「フィルム」は横断しているけれど、何一つ終わりはせず死にはしないと指摘する。

揺り椅子が動きを止めるとき、精神の揺り椅子が揺らぎ始めるのであり、登場人物が死ぬとき、それはすでに精神の内において運動を始めていることなのであると述べている。他者と区別され、混同されるための〈自己〉などというものはもはや持たない、こうした特異な原子を解き放ち、知覚し得ぬものになることこそが〈生〉なのだと述べている。もはや知覚すること消尽され、〈自己〉は消失しているのである。このドゥルーズの文章にベケットの作品は言い尽くされていて、もはや言うべきことはない。

ただ、この精神の揺り椅子は、個体を構成する原子以上に微細な、例えて言うなら、光子や電子などの動きを、際立って活性化させているはずである。即ち消尽しているが故に肉体という束縛を解かれて、生きているとき以上に知性的に振る舞い、開け放たれて境界のない空間を自由にさすらい、自由闊達に生きているのである。この際限もなく揺れ続ける精神の運動こそが、この宙において連なり果てしなく拡散する波の揺らぎであり、この波の不分明な波長域が不分明な言語によって明らかにされるのが、ベッケットの精神構造そのものなのである。ある現象とその鏡像とが同一にならないことをカイラリティと言うが、ベケットの場合、揺れる波のような言語が、その表現される精神がカイラリティそのものの、もはや同一性を欠いた自らの鏡像のようなものであり、自らと異なった自らを自らと信じている混乱であり、思い付きであり思い出でもある。

即ちモロイはベケットの鏡像でありながら、モロイやモランの鏡像であり、モロイはもはやベケットやモロイやモランの鏡像とは異なった自らを、この像に執着して渦を巻き揺らぎも含んでいる言語の内に作り出して、言語だけが進行していくのである。まさしく尽きることの無いこのカイラリティなる特性を持つ言語の進行性そのものがこの宙であり、ベッケトの作品はこの宙の構造を明らかにしようとしているのである。カイラル対称性の破れとは、杖や自転車の喪失であり得る、この対象性の破れについては別の機会に記述したい。

そういう意味で「モロイ」はまだ消尽の初期段階であり、モランも登場されることで伝統的な小説手法も含んで作為的であり、カイラリティの鏡像が始まる過渡的な作品ということができる。良い作品である。

以上

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詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。