短編集表紙-1

短編小説その14「石を食う牛」

      石を食う牛

牛は石を食らう、牧草があるのに敢えて石を食らう。言葉みたいに反芻する。胃袋のなかには粉々になった石が詰まっている。どうにも困ったことだと牧場主は牛を牛舎に閉じ込める。何日も外には出さない。牧草も与えない。石を排出するのをただ待っている。牛は牛舎の中で寂しげに鳴いている、その声は次第にか細くなっていくとも牧場主は放置しておく。彼はこの問題を解決しなければならない。一頭の牛は結構な財産である。もっと生育させて大きくして売り飛ばさなければならない。それ以上に何十頭の牛のなかの一頭だけではない、どの牛も特異な食事を真似ることを恐れている。彼の飼育する全部の牛が石を食べ始めると考えるだけでも恐怖である。この牛を処分しようかと思う時もある。けれどもやはり一頭の牛は育てれば結構な値の付く財産なので決断がつかない。矯正させることである。悪癖はすぐさま直さなければならない。どうしても治癒できなければその時にこそ処分すべきである。だがこの牛の寂しげな叫び声が牛舎に響き伝わっていく。他の牛たちはその悲しい声に耳を澄ませている。頭をびくつかせて瞳を閉じ聞き入っている牛もいる。共感すべき声であるのか、伝わってくる言葉の意味を把握しているのか牧場主には分からない。ただ幸運なことにこの一頭を除いて石を食らう牛は現れ出ていない。無論良いことであるけれど牧場主には全く理解できない。同じ素地を持っていてまた石を食らう牛が現れ出てくるのか、それともただ単に同情しているだけなのか。この違いを見抜けば石を食らう牛への措置も変わってくる。分からないからには自らの思考に基づいて取り扱いを定めて実施するしかない。


考えを変えて石を少しも排出せずとも牧草を与える。ただ断食行者のように食らうことがない。次第に痩せていた体がなお痩せ細って弱ってくる。どうしても草を食わないために牧場主は試しに石を与える。すると喜んで食べるのである。忌々しく思うとも牧場主はどう処置すべきか決断がつかない。この牛の体内には食らった石が詰まっている、栄養分にはならずとも砕かれ消化されているのだろうか。石を食べさせると寂しげな叫び声は発しなくなる。どの牛たちも悪い影響を受けていない。このまま石を食らわせて放っておくのが良いのである。牧場主はこうして悪癖が広がる心配が無いと分かると、この牛の習性に強い関心を持つ。できれば根本的な原因を見出したいという思いにとらわれる。万が一にも他の牛に同じ習性が現れないようにするため必要な措置でもある。この原因究明は容易ではない。牧場主はまずこの悪癖がいつ始まったのか思い出そうとする。確かに石を食らう癖はある時期から始まっている。この時期は季節で言えば春である。柔らかな春風の吹く牧草地に放っていてこの牛に何が生じたのか。何十頭も居て四六時中見張っているわけではない、連れ出して戻らせるだけの行為を牧場主は行っている。分かるはずがない。無論、他の牛に尋ねることもできない。でも何かが生じたのである。一つの出来事がこの牧草地のこの牛に、もしくはこの牛の体内に生じて発火したのである。燃える思いではなくて秘めて冷めた突発的な発火である。燃え上がる炎などない、無表情に無慈悲に子細な情念がもしくは思考が青白い小さな線となって、牛の体内に線香花火のように発火し転がる石のように流れ始めたのである。


こう思うと牧場主は可哀想に思って牛の傍によって頭を撫でる。牛は無表情のままじっと立っている。石を食らう時以外は何もせずにその場に居るだけである。ただ時々鳴く。体を震わせて鳴く。そういう時牧場主は困った奴だと思いながらやって来て背中を撫で摩っている。目を閉じて牛は気持ちよさそうにしている。お腹を空かせているはずなのに石が胃袋を満たしているのか、牧草を食べることはない。むしろ拒絶している。次第に痩せていくのに決して食べないのである。この牛に何が生じたのか調べようとして、ある晴れた日に牧場主は他の牛たちと一緒にこの特異な牛を従えて牧草地に出掛ける。温かい日差しが満ちて春風が吹いて牛たちはのんびりと牧草を食べ始める、あるいは心地よさに寝転んでいる。だがこの牛は自らの位置に立ったまま身動きをしない。瞳も閉じて石を探そうともしない。鳴くこともしない。何をも拒絶しているように牧場主には見える。この牛は仲間の牛たちからは離れて位置している。仲間外れにされているのではなくて、自ら位置を違えて離れている。別に生育さえしてくれれば互いの交友関係は無関係であり問題とはならない。可愛らしい小鳥が飛んできてこの牛の背中に止まり休んでいる。そうか、牧草地でも決して一人ではないと牧場主は思う。小鳥と戯れて過ごすこともあるのである。その時突如として蛇が現れてすぐさま牛の足に絡み付いている。あまりの突然さに牧場主は驚くと、絡みついた蛇は牛の背中へ這い登ろうとする。蛇は背中に乗っている小鳥を狙っている。這い登れば鎌首をもたげて一気に飛び掛からんばかりの勢いがある。牛は蛇に動じないばかりかそのままにもさせておかない。蛇を威嚇するのである。


初めて牧場主はこの牛の長けた性質を見たように思う。口から石の粒を吐き出して蛇にぶつける。這い登らないように足を揺すっている。ただ登ろうとする蛇は容易に離れることはない。小鳥はこの有様を眺めながらも飛び立とうとはしない。牛の力を信じているのでもない、ただ春の長閑さに安らぎを覚えているのか事態の深刻さを理解できていない。牧草地に度々蛇が現れ出るのは知っている。ただ貪欲に牛に絡まって獲物を得ようとする蛇は稀である。牧場主はどうなるか黙って見ている。彼にはこの牛の心の内を見たような気がする。即ち蛇を是としない勇気を持ち、蛇に食べられなんとする小鳥を背中に安らがせている。蛇に鳥が襲われる事象は蛇と鳥との弱肉強食の関係である。ただこの牛は出来事の因果律の関係に巻き込まれて、もはや自らに背負っている。牛は石を言葉のように吐き出しながら鳴いている。どの牛へも知らせるためではない、拒絶しようとする意志が石つぶてを威嚇する言葉そのものとして発している。攻撃用の武器として吐き出している。でも蛇は素早く身の丈を伸ばして襲い掛かり瞬く間に背中の小鳥を飲み込んでいる。結局牛はこの出来事の間に入って因果の結果を思うように操れなかったのである。目的を達した蛇は悠然と草むらを這って去って行く。この牛が何らの復讐も成し得ないと知っている。牛の足と足元には血が滴っている。咬まれた牛の足からか踏まれた蛇の体から生じたものか、飲み込まれた小鳥から滴った血であるのかは判然としない。だがもはやどの血であっても混じり合わさった血だとしても区別の必要はない。既に出来事は生じて過去になったのである。牛はもはや因果律を未来に向けて阻止するためにただ石を食まなければならない。


どうしたものかと牧場主は思案する。この牛に生じた特異な出来事に不吉な予感が過ったためである。この牧場そのものへの不吉な前兆である。この牛は何も悪を成していない。弱肉強食の正統な因果律であっても認めるべきではないとする、むしろ善意の持ち主である。本当に悪ではなくて善な行為だったのだろうか。疑問に持ちながらも、この結末をそのまま見逃して良いとも思われない。何らかの行為に対する対応が成されると良かった、例えば牛が力強く前足で蛇を裂き殺せば違った結末も想定される。蛇の目的を達成させたことは、また甘い汁に味を占めて蛇がやって来るということである。大きな蛇さえ襲ってきて牛たちを丸呑みにするかもしれない。即ち牧場そのものに生じてくる危険な未来を予防できなかったという点に関してこの牛は失格である。でも本当に考慮すべき点は何なのか。善でも悪でもなくて危険な因果律そのものの除去ではないだろうか。飼い主の悩みなど知らずに牛は吐き出した石を補うべく新たな石を探して食べている。牧場主は困惑しながらも優しく牛の頭を撫でている。戦うべく牛は頑張ったのである。でもその評価と殺傷権は牧場主が握っている。どうしても不吉な未来への予兆が頭を離れない。牧場主は迷いながらもこの牛を屠場に連れて行くと決心する。それはこの牛が悪いのではない。この牧場の諸々の自然的な環境が悪いのではない。むしろこの牛も牧場も勇者として良好な牧草地として質が高い。むしろ非難されるべきは蛇であって、蛇を追い出そうとしない牧場主が悪いのである。そうであってもこの地に潜む蛇を追い出すことなど牧草地をすべて燃やしてもできることではない。結局、牧場主はこの出来事の因果律に特定の理由や原因が潜んでいることを、それらが増幅してより明確な悪意として未来に立ち現われてくることを恐れたのである。この牛の殺傷とは無関係に思われるが、決して無関係ではない。この牛の背後に潜んでいる悪意ある意志を恐れて、この意志を断ち切ってこの牧場への影響を免れる、そのため勇者のきっと善なる行動を取った牛に死なせることを決断したのである。


悪意ある意志はこの牛に絡みついて立ち現われてくると判断した。別な牛に絡みつくかもしれない。けれどまずはこの牛を屠場に送り様子を見ようとしたのである。蛇がいて小鳥を狙っていたとしても牧草地の外で行われれば牧場は安全である。この牛が居なければ因果律を含む出来事そのものが生じない。小鳥を背中に乗せる牛などどこにもいない。この牛こそが蛇を導き出している。牧場主は自らの思いにどこか矛盾を認めながらも論理性はあると信じ、すぐさま牛を引き連れて街道を歩いて行く。屠場はそれほど遠くない。牛と牧場主の連れ立った道すがら何事も生じてこない、柔らかな日差しを浴びながらただ歩いて行くだけである。すると小鳥が飛んできて牛の背中に止まり戯れている。もうすぐ命を絶たれると知らずに牛は思うままに遊ばせている。砂利が敷き詰めている箇所にくると牛は未来に向けて石を食む。この習性を矯正することなどできない。小鳥を邪悪な意志から守るために言葉のように齧り食む。もし悪意が襲ってきたならば砕けた石ではなくて、強い口調の言葉として吐き出すべきである。明確な拒絶の意志を表すためにむしろ整然とした論理以上の拒絶の意志として表現すべきである。春の日差しは柔らかながら連れ立って行く者たちを輝かしている。道の左右には若々しい緑地や芽を吹き出して花を広げている木々が、囀る小鳥たちを枝々に止まらせて立ち並んでいる、それらの風景を眺めなどせずに一行はゆっくりと歩んでいる。こうした春の穏やかさに包まれていると牧場主は決めた目的を忘れそうである。どうしてこうなったのか判然としなくとも、歩めばもう目の前に屠場の門が待ち構えている。牛が立ち止って石を食らうのを牧場主はじっと見詰めている。牛の瞳には悲しげな色彩が浮かんでいる。行き先を知っているのだろうか。牛は小さな声の響きを発している。既に伝え聞いた門番が一行の到着を知って門を開けると軋む金属音がする。牧場主はその音を聞いて振り返ると、もはや背中に小鳥のいない牛が立ち止って居る。小鳥はいつの間にか飛び去ったのだろう。門を通ると目の前には大きな黒い屠場がある。牧場主は牛を引き連れてゆったりと歩き入口へと向かう。牛はそれまでと同じようにゆっくりと歩んで入口の扉を通過する。

詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。