見出し画像

井原西鶴著 杉田穆 校注「好色一代女」を読んで

「好色一代女」は「好色一代男」と趣向が異なる。そもそも「好色一代男」とは好色を好みその道をまっしぐらに進む男の話である。行く付き先は「女護の島」なる宇宙である。限りなく好色を尽くすことができる理想の地にたどり着かんとする。楽観的な希望に溢れる結末が待ち構えている。それに比較して「好色一代女」は、性に目覚めた女が身を売る女郎へと転落する話である。この女郎も位は天と地の差がある。一夜の代金も雲泥の差がある。それに、素人女の色恋沙汰が混じり合わせている。いわば、希望に代わって、悲哀が含まれている。身を売る女の悲しさが含まれている。最後に、好色一代女は自らの身を浅ましく思い、自らを捨てようとするのである。 

「好色一代女」の解説では、「好色一代男」の哲学的とも言える時空の枠組から謎解きを行うのとは違って、一遍一編の解説を積み重ねている。描かれる女を素人女と女郎とに区別して、その話の特徴を具体的に解き明かしている。いわば本篇の捕捉説明のようなものである。従って、井原西鶴が描く「好色一代男」の希望を遂げる話と「好色一代女」の浅ましく身を落としていく話との落差が、どこからなぜ生じているかは良く分からない。儒教の男尊女卑とも異なっている。井原西鶴は俳諧師から始まって、こうした好色本を描き、浄瑠璃本にも関わり、そして「日本永代蔵」などの経済本も出版している。つまり俳諧師、浮世草紙や経済作家としても活躍しているのである。なお、調べてみると、彼の書いた本は全部自作ではなくて、ただ単に名前だけ関与させた本も多数あるとの説が有力である。 

なお、解説では資本主義社会の貧しい女たちを金力で支配する悪行を井原西鶴は鋭く捕らえて、女の悲哀に満ちた境遇に寄り添っていると記述している。ただ「好色一代女」が身を浅ましく思い、身を捨てようとすることも含めて、西鶴は基本的には客観的な視点から書いている。即ち、読者を納得させる筋書きに書いたもので、西鶴の心情は作家としての本領を発揮したものだとも考えられる。西鶴の書いた本のうち私が読んだ本は少ない。従って、彼の本心が金力支配の悪行か、それとも身を売られた女の悲しさか、単に一代男との対になる本であったのか、どこに本書の目的があったのかはつかめていない。ただ、彼は大いなる野望の持ち主であり、当時のタレントとして成功をおさめることだったことは確かである。それでなければ矢数俳諧など行うはずがない。浮世草紙などの新分野を切り開くはずはないのである。こうした野望が江戸の町人文化の走りだったのは否めない。なお、西鶴の浮世草紙は鶴屋南北の怪談物や近松門左衛門の義理・人情物とは異なっている。なお、井原西鶴の描写の客観性は、明治の雅俗折衷体に影響を与え、自然主義にまで浸透しているかもしれない。井原西鶴に対する研究が待たれる。というより、こうした解明を行った本は既に出版されているだろう。 

さて、それほど書くことがないので、「好色一代女」の最初の性の目覚めと最後の身の浅ましさを嘆き死のうとする文章を引用したい。無論、女郎の客との駆け引きや女の位を落としていく様を示したいが省略する。杉田穆が巻末に記述した、日の出から日没までを昼、日没から日の出までを夜として算出する「近世の時刻制度」と金銀銭の三貨を貨幣とする「近世の貨幣をめぐる常識」は大いに参考になる。また、女郎の位は太夫、天神、囲女郎、局女郎となる。更に端局なる三匁取、二匁取、一匁取、五分取となる。行く着き先が夜発である。無論店には居られず、立って待つことになる。なお、夜発とはたぶん夜鷹のことに違いない。値段は十文の約九十円である。西国の大尽が太夫野風に送ったのが一歩金三百枚、約二百六十三万円だったと書かれているので、雲泥の差がある。一歩金とは四分の一両である。また、匁とは十分の一両、文とは四千分の一両である。 

さて、「好色一代女」は、老女が自らの一代の身のいたずら、さまざまに成し変わりし事を、夢の如くに語ることから始まる。老女は卑しからず身にて官女に仕えて、そのまま年を重ねて勤めての後は、必ず悪しかるまじき身になったはずなのである。ところが色が生じて、美男ではない、文章の上手なはしたない男に身を任せたために、宮使えを追い出されて、男は殺されるのである。この原文を引用したい。 

十一歳の夏初めより、まけもなく取り乱して、人まかせの髪結ふ姿も気に入らず、 髱(つと)なしの投島田、隠し結びの浮世元結といふ事も、我改めての物好み、御所染の時花(はや)りしも、明け暮れ雛形に心を尽せし以来(このかた)なり。・・・おのずと恋を求めし、情けに基づく折から、あなたこなたの通わせ文、皆あわれに悲しく、後には捨て置く所もなく、物言わぬ衛士を頼み手、あだなる煙となすに、諸神書き込みし所は消えずも、吉田の御社に散り行きぬ。

恋程をかしきはなし。我を忍ぶ人、色作りて美男ならざるはなかりしに、これにはさもなくて、さる御方の青侍、その身はしたなくて、いやらしき事なるに、初通よりして、文章、命も取るほどに、次第次第に書き越しぬ。いつの頃か、もだもだと思い初め、逢はれぬ首尾を賢く、それに身をまかせて、浮名の立つ事やめ難く、或る朝ぼらけに現れ渡り、宇治橋の辺りに追い出されて、身を懲らしめけるに、はかなや、その男はこの事に命を取られたし。 

こして始まった物語は、先に述べたように国主の艶妾など暮らし向きの良い立場から、次第に身を落として行く。遂には女郎になり、その位も落ちて行くのである。そして、老いを重ねていき、遂には誰一人として相手をしてくれる男がいなくなり、浮世の色勤めをやめる。最後に五百羅漢を見て、付き合った男たちの顔を思い浮かべるのである。 

「さても、勤めの女程、我が身ながら恐ろしきものはなし。一生の男、数、万人に余り、身は一つを、今に世に長生きの恥なれや、浅ましや」と、胸に火の車を轟かし、涙は湯玉の散るごとく、忽ちに夢中の心になりて、お寺にあるとも覚えずして、伏し転びしを、法師の数多立ち寄り、「日も暮れるに及びけるは」と、撞鐘(つきがね)に驚かされ、ようよう魂確かなる時、「これなる老女は、何を嘆きぬ。この羅漢の中に、その身より先立ちし一子、又は、契夫に似たる形もありて、落涙か」と、いとやさしく問われて、殊更に恥かはし。・・・よしよし、これも懺悔の身の曇り晴れて、心の月の清く、春の夜の慰み人、我は、一代女なれば、何をか隠して益なしと、胸に蓮華の萎むまでの身の事、たとれ、流れを立てたればとて、心は濁りぬべきや。 

法師に優しく言われて恥ずかしく、でも、一代女なれば、一生を隠しても益もなく、たとえ色を立てる生活をしていたとして、心は濁ったまま終わりはしないと、一代女は救済されるのである。杉田穆は西鶴の妻も遊女だったとし、町人社会が遊女を妻にすることの難しさを指摘し、かつ再度言うが貧しい女たちを金力で支配する悪業を西鶴は鋭く捕らえて描いたと記述している。なお、遊女を妻にする難しさは遊里の世界の女たちの妬情にも在り、「好色一代男」に描かれる太夫吉野が世之介の妻になる時に、下女風に姿をやつして、皆をもてなす心遣いにも表れているとする。無論、こうした悲しい境遇の女たちを描いた本は他にもあるようである。とにかく、西鶴は彼の生きた時代のあらゆる女を内面から描きたかったと、杉田穆は主張する。そこまで律義に褒めなくとも、西鶴には遊女の立場に寄り添う心情は持ち合わせていたのかもしれない。でも、遊女と共に過ごす男の心遣いを非難することはない、むしろ共に過ごすからこそ褒められるべきものである。男が色を買うのは当然なことで、心情として遊女へ心配る優しさはない。日本で赤線が廃止されたのはGHQの指示に従って行われた戦後である。売春防止法が制定されたのが1956年である。つまり戦後も十年程度、合法的に売春は認められていたのである。 

さて、「好色一代女」も「好色一代男」も一代である。この一代にこそ意味がある。ジョルジョ・バタイユの「エロシチズム」ではエロス(色と呼び変えよう)は根源的に生きた人間の世代間の継続にある。つまり自らの死を内包する人間が、子孫を作り出すために色を成すのである。だが、西鶴の描く一代男は色に耽って満足しながらも、子をなすことはない。一代女は色の道にはまり込みながら、最後に言い寄る男が居なくなって、やっと救済され尋常な生活を送ることができる。無論、子を産んだことはない。「好色一代男」の解説に、この一代の意味を考慮した個所があったはずである。即ち、大切な家と言う家督相続に必要な子孫を生まないと言う設定は、家を聖なる核とする体制にとって危険な思想であると指摘していた。この「一代」という言葉に込められた意味の軽重は今後考慮されなければならないだろう。意外にも重い思いが込められているかもしれない。生命の系譜を継続させることの拒否であるためである。 

最後に、本書に関連して、永井荷風作の「墨東奇譚」について若干触れたい。初老の男が若い女の住む娼家に通う話である。他にもいろんな色本があるが、この小説を選んだのは、色を売る商売女のきびきびとした態度に悲しさがこめられ、また男の孤独や憂愁を含んでいるとし、一般的に文学的評価が高いためである。私はこの小説が好きではない。価値の低い人情本の類であると思う。小説の中に小説を描くと言う二重構造がそもそも好きではなく、初老の男のもの悲しさも嘘くさくて、しみったれで、嫌悪を感じる。いわば自己本位な男の性格なためである。敢えて「墨東奇譚」を取り上げたのは、永井荷風の作風を批判し、彼を褒め称える人々を批判したかったためである。つまり私小説風、その亜流のしみったれた私小説そのものを批判したかったためである。それ以上の意味はない。一度は、こうした詩小説を論じてみたい。そういう意味で言えば、女を見る客観的な井原西鶴の視線の方が断然確かで好感を持てる。 

以上

この記事が参加している募集

読書感想文

詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。