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題:マルキ・ド・サド著 澁澤龍彦訳「悪徳の栄え(続)ジュリエットの遍歴」を読んで

ジル・ドゥルーズ著「マゾッホとサド――冷淡なものと残酷なもの」を読んで、サドとマゾはそれなりに理解しているはずで、マゾッホは何作品か読んで納得している。けれど、サドは冗長であったのか、途中で放り出したかもしれず、さっぱり記憶がない。機会があれば、読んでみたいと思っていたら、押し入れの中を整理していると偶然見つけ出した本である。表紙の写真とは異なって、発行年は1964年と古く、現代思潮社から出版された本である。それも二分冊にされたうちの続編である。どうりで、出だしが既に登場人物がいるような書き方で少し分かりにくかったけれども、サドの言わんとすることがおおよそ分かったのである。

訳者の短いあとがきでは、裁判沙汰になり『「露骨にして具体的なる性交性戯に関する記述は含まれていない。・・問題の十四か所カットしたため、どうやら、この本は「謹厳にて抽象的なる道徳に関する記述」しか含まれていない書物になってしまったようである』と述べていて、どうりで悪徳などの哲学的とも言える論証が多くて、後半の一部を除いては、具体的な行為そのものは凄惨な凌辱を極めながらも、短文で簡潔明瞭に書かれている。表紙の写真は、河出書房版でありながら、訳者もページ数もほぼ同じであり、現代思潮社版と同じ内容と推測される。つまり、裁判結果も詳細は知らず、本書の完訳版があるかどうかについても知らない。探し出せばきっと完訳本はあるのかもしれない。

この小説の内容はともかく、小説の文章と構成は上手である。たぶん、正編でジュリエットは自らの過激に淫蕩な要求を満たすために行い始めた悪徳について語り始めるはずである。もしくは著者が記述を始める。こうした語りもしくは記述の構造は、一部に語りの内に語りを含む古典的な手法を取り入れながら、大きな筋の流れに従って続編にて完結するはずである。即ち、続編では、フィレンツエやローマでの、かつ教皇との淫蕩さの充足、大盗賊と彼の妹なども含めた身の上話、ナポリ巡りを経てヴェニスに至り、パリに帰還するまでの、かつ帰還後の御婦人たちや王様に侯爵との策略や陰謀に裏切りを含ませた数々の物語が記述され、物語を高揚と盛り上げ、ジュリエットはいわゆる悪徳によって尽きることの無い情欲を満たしていくのである。そして、敬愛する男が大臣の死によって、政府の権力を手中にするのをジュリエットは喜ぶ。思うままに富と大衆もしくは人民を得ることができるためである。

少しばかり感想を書く前に、ジル・ドゥルーズ著「マゾッホとサド――冷淡なものと残酷なもの」を読んで既に書いている感想文を少し紹介したい。以下のようなものである。『本書はドゥルーズの文章としては複雑な論理の展開は成されずに、訳文は込み入っていて不明な部分もあるが思想の総体としては簡明に分かりやすい。本書はかの有名なサドの文学に比較して、それほど馴染みのないマゾッホの文学作品も、マゾッホがサドの従属物ではなくて二人の作品は異なった二つの芸術であるとドゥルーズは述べて、論証を行っていくのである。即ち「サド=マゾヒスム」という固定化された関係を解きほぐし、それぞれの言語的な機能の果たす役割、善悪や法、自我と超自我関係、更にユーモアとイロニーやエロスとタナトスなどを明晰に論述している』 

そしてこのように続いている。『サドにあっての言語的描写は、まずサディストが持つ個人的な嗜好を描写する、これが非個人的な要素に高揚として指令し、非人格的な暴力を純粋理性の観念とする。個人的要素を脱して恐るべき論証性と一体化させるのである。これには、制度を必要とする。制度とは権威と地位との構成要素でもある長期的な法規ことである。一方、マゾッホの言語的な描写は、肉体を宗教的・神学的に捉えてこれを芸術作品から「観念」へと昇華させる弁証法的な精神活動が活力源となっていて、契約を必要とする。契約とは契約者同士の意志を仮定し両者間の権利と義務を明確なものにする一定期間有効なものである。更にサドにあっては、自己の内外の自然を否定し「自我」そのものを否定する快楽なのであり、否定性と否定の概念に基礎を置いていて、これらは高度の論証機能をめざすのである。いわば論証の快楽でもある。なお、否定性とは具体例はあげないが能動的な活動において生じて、否定は純粋理性の観念のことである。

一方マゾッホにおいては、例えば女にペニスは欠けてはいないという否認が重要なのである。現実を認識しているがその認識を否認し、世界を否認して、女を吊るすように宙吊りにすること、そしてその宙吊りにされたものに向かって自分を拡げること、いわば現実を超えた錯乱であり、もはや男とも女とも言い切れない中性化でもある。ここでマゾヒストは専制的女性を養成しなければならない、訓育者であることに注意する必要がある。こうしてドゥルーズは、サドは純理論的で分析的な手法をとり、マゾッホは神話的で弁証法的であり、想像力において全く異なっていると述べている』

ジル・ドゥルーズ著「マゾッホとサド――冷淡なものと残酷なもの」におけるサドとマゾ論はある一点を除いて良く書かれている。この一点とは、鞭打つ絵柄の女性に関係する性別に関係する。サド論における制度とは権威と地位との構成要素でもある長期的な法規ことであると述べていることは、この専制君主の制度によって富と人民を得ることができ、非人格的な暴力によってほぼ無尽蔵に消費できることにある。そしてこの消費は、ドゥルーズが述べるように自らの内外の自然は否定され、自我も否定・排除されて超自我がなさせる論証なのである。自我は犠牲者の内にのみある。制度とは、もはや専制君主の制度ばかりではなく、資本主義社会や社会主義社会の制度でも超自我は限りない消費を求めて、限りない消尽を求めている。そのことは、このマルキ・ド・サド著「悪徳の栄え」が制度論の法規を従えて、この制度がもたらす論証の究極の形態を、もしくは制度の究極の様態を描いているはずである。欲望の解放によって人間は自らを取り戻すのではなくて、欲望する自我が論証を実践する超自我の犠牲になるのである。「悪徳の栄え」はこの警鐘であるというより、その赤裸々な在り様を濃密で猥褻な描写の内に示しているはずである。

なお、欲望とはドゥルーズにとってとても重要な概念である。なお、人間の欲望と制度が枯渇して求める欲望とは埋め尽くすことのできない差異がある。この制度とは体制そのものでありながら、かつごく一握りの人間である。ドゥルーズの資本主義社会に対する思想では、人間は欲望を閉じ込められ分裂症患者になる。人間に欲望を取り戻し自由なければならないとする、でも実現は困難なはずである。欲望する人間はきっと自由を取り戻すことができても、欲望する制度はこれら人間をすぐさま消尽するはずである。サミュエル・ベケットのように自らが消尽するのではない。制度は人民の肉体そのものも含めて消費する、消尽するのである。こうに思われて仕方がないけれど、これを救う手立てはない。「悪徳の栄え」はこの消尽の繰り返される歴史を事細かに描いている。ジュリエットの遍歴とは歴史そのものの遍歴である。この消尽する制度と論証機能は、資本主義社会における欲望とともに、機会があればもう一度考えてみたい。それと、大量に人間の消尽を要求する制度は、ベケットの燃え尽きて這いつくばって生きている個人の消尽と、どう関連し違っているのか注目したい。即ち、これら消尽の時代はまだ重なっているのか、もはや一方が乗り越えて時代を進ませているかである。

以上

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詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。