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散文詩「首を吊った太陽に蛇や女」その27

    発せられた言葉

 誰が発するのかこの音は、閊えどもりながらも言葉のようである。美しく響き渡っていくのではない、この宙の星屑にぶつかり傷ついてよたつきながらも、ひび割れ砕けようとも、歪んだ波形が所々欠損しようとも、確かに響き伝わっている。この宙のあの向こうへ境界が定められていない、まだ宙としてシステムが形を成さないその向こう側に何かを伝えようとしているに違いない。意味を含んだ言葉であっても、誰もが居ずに誰もが匙を投げて理解できない音であったとしても、発せられた言葉の波が太陽のおぼろな薄い色に染めた空を、星の煌めきが瞬きを繰り返し時が流れていく空間を、たった一筋の狭い道のようにして伝わっていくのである。


 発するのは誰か、この音をこの言葉を、何を伝えたいのか知る者はいない。あなたは疾うに死んで、麗しい声の響きを伝えた美しい女も死んでいる。こうして二億五千万年が経ち、今この宙はまだ作動を、生産のプロセスを営んでいない。正しく自分自身を生み出すプロセスを確立していない。煌めく星や光輝く太陽が居るとも不思議なことに生み出す過程がまだ確立されていないのである。それでも何かが始まるのか。女の胎内の空洞のように、この空は何をも詰め込んでごったにされた物質が撹拌されて、どろどろに溶けた岩漿のように生まれ出るのを待ち構えているというのに、この宙にこの地にこの空に伝わる言葉が、まだ始まりや終りを告げていないのである。でももうすぐ始まって生まれ出るべき者たちが生まれ出ると信じたい。


 透けた細い糸を織り成して、死んだ女の白い指が小さな蜘蛛の巣のような網を作っている。捕える獲物はよろめきながらも伝わっていく言葉である。太陽の光が少しばかり増量して網の糸の煌めく色がわずかに燃えている。虹のように輝くとは言えぬが、ほんのりと色を染めた女のように艶やかである。その糸の網が閊えてどもる音の波を簡単に捕まえている。糸を織り成した死んだ女はあなたの方を見ながら何をするでもない、ただ死んでいる。本当に死んでいるかは知らぬが、この白い繊細な指がこの宙にあって作動して、正しくプロセスの開始と終了を制御しているのではないだろうか。


 捕まえられた言葉は蝉の抜け殻のように茶色くてからからに乾いている。ぶつかる度に網が揺れる。夥しい抜け殻が付着している網の糸は、風もないのにからからと糸車のように音をたてる。言葉の音の代わりに乾いた音がこの宙に響き渡っている。夕暮れはやってこない、この宙に太陽は永久に光を送出している、細い筋の一本一本の光が遍く薄い色を染めてこの宙を照らし出している。どんな色に染めているかは定かではないが、からからと響く音が聞こえなくなると、もう言葉が発せられることがなくなったのか、発していた誰かが死んだ者となったのか。この宙に薄っぺらな紙のような干物の言葉を発する死骸がたくさんあるというのに、言葉による始まりは訪れないのだろうか。


 網が天井に引き上げられて解体する、元の複数の糸に縒りを戻して吊り下がっている。茶色い奇怪な残骸を、死んだ言葉の抜け殻を吊り下げている。岩や星の屑もあなたも女の白い指もこの地も死んだ者たちも何もが吊り下がっている。無音である、全くに静かである。この宙は死んでいるように見える。システムとして作動して生み出すことなどたぶん無い。言葉が捕まえられたためか、プロセスなど勝手に動き出すのに、太陽が照り輝いているというのに、胎内にはどろどろとした岩漿が蠢いているというのに、始まることがないのである、いや既に新たな宙が始まっているのだろうか。良くは分からないけれど、死ぬのか生まれ出たのか分からない蝉に似た夥しい言葉の抜け殻が低く唸り、そことあっちに蠢いているのである。

詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。