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題:マーク・ルラ著 佐藤貴史・高田宏史・仲金聡 訳「シュラクサイの誘惑  現代思想にみる無謀な精神」を読んで

哲学者とその政治行動に関する冒険的なエッセイである。分かりのよい文章で哲学者の思想の紹介にもなっているが、僭主政治に手を染めた者を非難する一貫した姿勢はとても厳しい。たぶん、著者は哲学者が真理へのあこがれと同時に具体的な秩序づけ(政治)を行いたいとする欲望との間には関連があり、この衝動が、無謀な情熱とも成り得ることを人間の心の中にあることを見抜いていたプラトンの考えを受け継いでいるのである。即ち心が観念を取り扱う哲学者には、この自らの心の衝動を統御する至高の自覚を求めているのであり、この自覚を持たない者に厳しいのは著者には当然のことなのである。そしてプラトンの「饗宴」の語りを受け継いで哲学と愛を論じ、イデアと知的に繋がって交流することが哲学の目的あるのに対し、節度を欠く者には必ずしも哲学となっては現れない肉の情念・エロスがその人物を狂気といった官能的な快楽の中に沈みこませ、理性と自然の本性をおのれの目的に従わせ、魂の僭主になることも有り得るとする。そして、エロス的な愛着、精神の生活、政治の世界のこの互いに独立した世界を非凡にも実現させた者たちについて(例外者もあり)、6章を用いて合計8名以上について書いては厳しく非難して行くのである。 

この非難が正統なものであるのかは私には分かりかねる。著者の僭主政治としてのファシズムや共産主義、更に人間の知性と行動の完全性への断固たる潔癖性がなせる業かも知れない。そもそもヒュームのごとく人間の「倫理は情念から生れる」する哲学者もいるのであって、今や理性は情念に従属している付属物のようなものであるかもしれない。ヒュームは「理性は感情の奴隷である」とも言っているらしい。どういった政治形態になるか分からないが、将来的に「隷属」ということが起こるのは確かであると私は思っている。いずれにせよ本書を読んで率直な感想は、「シュラクサイの誘惑」というより、誘惑などなくとも僭主政治は物怖じしない女のように押し掛けてきて、女房として亭主を乗り越え立派に切り盛りするのである。 

なお「シュラクサイの誘惑」とは、僭主政治を行う王に理と知を教えるために三度もシュラクサイへ出かけたプラトンの故事にならっている。また、ハイデッカーが大学総長(親ナチスと著者は言っている)を辞めた時には「シュラクサイからお戻りで?」と皮肉られたらしい。以下記述されている人物について著者の言い分を元に簡単に紹介したい。また、私の著者の真意に関する憶測を最後に付け加えたい。 

1) マルティン・ハイデッカーは、教え子であるハンナ・アーレントと関係を結びこの不倫なる恋人関係をほぼ生涯続ける。そして理性的な友人カール・ヤスパースの親切な忠告にも拘わらず、ナチスの政治に関わり、フライブルク総長就任のために活動を行い、実際に総長に就任してはナチスを擁護するとしている。この恋人にて友人の三人の関係が、書簡なども紹介し心の推移・行動などが割と詳しく記述されている。結局著者はハイデッカーのこの行動を子供じみたものとし、哲学はおのれの情熱を飼い慣らさなければならないとする。

2) カール・シュミットは、ナチスに入党しその体制に肩入れし、その公認唱道者になる。ユダヤ人に対しても冷淡である。今もシュミットの研究がなされているのは、戦後の主要な政冶理論家であり、その「リベラルな政治など存在しない」を主テーマにした、即ち個人主義、人権、法の支配など自由主義的な思想はフィクションであり、権威、リーダシップ、恣意的な決断などの非リベラルな思想に傾斜する道徳的な幻想などないの理論家であったか、リベラルとイデオロギーの根本的な非難者であるからである。そして著者は神学的絶望の政治を実践することのないよう、シュミットからは真に批判的な自由主義の思想について学ぶべきとする。当然シュミットのナチスへの肩入れは非難されるべきと主張する。 

3) ヴァルター・ベンヤミンは、文学批評家である。彼が描き出すバロック時代は、十七世紀ドイツの哀悼劇にアレゴリーとして表わされる。即ちバロック時代は歴史的危機の時代、宗教を秩序とした中世世界の崩壊であり、この哀悼劇の世界に秩序も英雄もいずに、僭主、殉教者などがメランコリーとして提示するとする。ベンヤミンはこの哀悼劇が表現する神学的思索からマルクス主義に転向する。つまりこの結果ベンヤミンは形而上学的なものと唯物論的なものとのあいだで、聖なるものと世俗的なものとのあいだで「引き裂かれる」ことになったのである。ドイツ哲学の伝統そのものが、カント以来この原理の間で引き裂かれていたのだと著者は主張する。 

4) アレクサンドル・コジェーヴは、ヘーゲル哲学の講義を行なうことに全知的人生を送ったのではなく、フランス政治家の貴重な助言者でもあったのである。ヘーゲルの自己意識の認識、即ち主人と奴隷の対立に奴隷が勝利し、即ち自己意識がおのれ自身と同時に他者のおのれも承認できるようになる。このことは階級間でも民族間でも生じるが、囚人-奴隷の関係の消滅は結局のところ哲学はひとつの終局に達したとし、コジェーヴはヘーゲル的な知恵を政治的に適用したとする。シュトラウスとの書簡では、彼は哲学者と僭主は歴史の仕事を成就させるために互いに必要とすると主張する。彼は資本主義と僭主政治的な国家社会主義(ソビエトを想定)の間で中立を保ち、公的な地位には一度も就かなかったとのことである。 

5) ミシェル・フーコーは、ニーチェの弟子を自任した。自己創造というニーチェの教義を真剣に受け止め、この教義に触発された人物とその政治的見解に審判が下せると考えていたと著者は主張する。フーコーの苦痛の源は同性愛だったとし、自ら「限界経験」と呼ぶエロティシズム、狂気、ドラックなどを追求する可能性が、ニーチェ的道徳家として現れ、その適切な心理学的地位を復権させるのである。そして「限界経験」への病的な傾斜こそ、より大きな「権力」への自己と他者の支配の訓練として賛美したと言う。そして、フーコーはいかなる現実的関心も寄せず、いかなる現実的責任も取らないものであり、この者が政治的な領域にデーモンを投影した時何が起こるのか、これを明らかにし得ると考えるのは馬鹿げたことであると、著者は痛烈に批判する。 

6) ジャック・デリダは、脱構築の中に単一の政治綱領を読み込ませようとする試みをことごとく躓かせた。説明なしに自分を左翼の人間と宣言して他人を訝しめたが、とうとう脱構築と例えばマルクス主義との類似性を発見したと言い張ることになる。一方、サルトルは「実存主義はヒューマニズムである」によって押しつけがましいヒューマニズムを聴衆に届け、共産党随伴者に成り下がる。レビィ=ストロークの構造主義が「世界は人間なしで始まったし、人間なしで終るだろう」と述べた時、ラディカルに民主的な点などにおいて、サルトルよりも優れていると見なされる。そして、デリダの脱構築は、ハイデッカーの「解体」に思想の源を持っているが、テクストに埋もれているアプリアなどをあらわにすることによって、ロゴス中心主義、男根中心主義の終焉を告げる。だが、脱構築が西洋哲学の政治的な原理に懐疑を投げ掛けるとしたら、政治的な判断は可能なのだろうかと著者はさまざまな問題を投げ掛ける。結局著者はデリダの思想はマルクス主義にも関係ない、種類のはっきりしない左翼系民主主義者として批判し結論付ける。 

最後に一言。この本の内容が論じられることはきっとない思われるが、著者の本来の意図も理解されることは少ないと思われるが、私も著者の偏見に悩まされることもあるが、むしろ唾棄すべきと思うこともある。ただ、この著者マーク・ルラの懸念していることは、好意的に言えば、たぶんこの今も一時も休まずに、確実に進行して権力の保持と強化なのだろうと推測される。即ち、この世界の政治構造なるものの支える権力の延長であり、復活であり、従順に画一的な民衆になる誘惑である。悪意的に言えば、関心を得ようと辛辣な批判を込めた著作物を出版しようとしただけである。 

以上

詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。