首を吊った太陽に蛇や女_-_コピー

散文詩「首を吊った太陽に蛇や女」その12

    空洞は長くて丸い

 空洞の中に青虫が這って糸を張る、張り巡らすようにして空を広げている。この空洞は暗くてじめじめしている、まるで沼のような湿地である。所々に水滴が滴っている、鍾乳洞のように突起物が垂れ下がっている。なにやら歩いていれば頭が痞えそうだ。突然に蛇が躍り出て絡み付きそうである。ぽたりぽたりと水の滴る音が聞こえてくる。どこからともなく驚かすために蝙蝠が飛び降りてきそうだ。青虫は糸を張り巡らせ続けている。きっとこの宙の空洞の全領域に千切れそうな細い糸を張って、蜘蛛のように粘性の糸に獲物が引っ掛かってくるのを待っているのだろう、それにしても空洞は広くはない、むしろ狭いのである。
 この宙にあるというのに、空洞はこの宙のトンネルのようなものである。狭くて長く続いている。果てしなく続いている、どうにも黄泉の国へと続いている道のようなものである。この空には死んだ太陽は居ない。太陽は瘡蓋のように少し厚めの表皮となって剥げ落ちると、土の上に溶けている。終にはすべてが肉のように土に溶け込んでいる。何がって、太陽ではなくて瘡蓋をつけた病人である、死人である、死骸である。あなたであってもいいが、黄泉の国のように夥しくはない人数が、指先を折って数えてみても、どの指先も折られることがなくて、即ち誰一人も居ない。ただ青虫がこまめに動いて指先のようなその身体の先端から糸を吐き出している空洞である。
もしやこの宙は四次元の空間と時間を持つ大いなる空ではなくて、がらんどうのように何もがない、ただ黄泉の国へと続いている単なる湿ったトンネルもしくは通路のようなものである。女の腹へと繋がる、もしや女の腹そのものかもしれないが、この宙はこの地に生まれた時から、丸くはない楕円体よりも長くに空洞として誂えられて続いている、女の腹を押し広げて並べたようなものである。どれもが通らずに誰もが生れ出ない。ただ死骸だけが焼却炉に向けて運ばれている。この焼却炉は粘ついた棺桶であっても、湿った沼地であってもいいが、この通路の向こうの黄泉の国との境界にあるに違いない。
 例え青虫の縄張りであっても、この空洞はこの宙に在って長く延びた楕円形をしている。フットボールのように弾力があり、包み込むような優しさや天井から悲恋に嘆いて涙のように雫が滴ってきても、粘性の液体の中には何をも宿してはいない。ただ死骸のような指だけが、指のような細い死人だけが通って行くのである、焼却炉の中に消え去らせるために、二度と生れ出ないために黄泉の国へと通過させる。青虫の巡らした糸に捕まることなど無しに容易に通過している、この空洞の奥にはもしかしたらどの国や格納庫などもなくて、ただだだっ広い野原が焼け爛れていて別の宙に向けて広がっているのかもしれない。
 青虫は渦を巻く、指や尻の先から吐き出す糸をこんがらかせなどせずに巻き上げると、この宙なる空洞は通路やトンネルや楕円体の概念もしくは視点をあっさりと捨て去ることができる。やはりこの宙はこれらの細長い形ではなくて、巨大な太陽が消滅した跡に残った丸い空洞であって、丸くはなくとも何もない空洞であって、この宙を包んでいる子宮のように、空洞そのものがあるのである。この空洞の宙の中に青い糸が長く伸びて円を描き何重にも張り巡らされている。この宙を新しく作り出すとしている、青い糸はもしや大いなる空洞たるこの宙を生み出すための宙なる子宮を作り出そうとしているのかもしれない。この糸に青い月の雫が、涙なのではない滲み出たあなたの青い精液が何滴か滴り落ちる、この可能性は否定できなくともなんら問題にはならない。

詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。