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散文詩「首を吊った太陽に蛇や女」その23

    記号の浮かぶ宙

 この宙には煌びやかに満ちた記号があちこちに、音と思いと意味を込めて浮かんでいる、言語でもあり象徴でもあるこの記号は、その意味を謎解くと一つの法則が表れるかもしれない。嫡子か私生児かどうか、それはいまだ勝手なかった誕生の秘密でもある。この宙を生み出した親の行為の謎解きにもなるに違いない。ただこの記号は星の数ほどに夥しくてすべてを記憶し解析できない。量子計算機の計算能力や記憶装置の大容量の電子素子の数を遥かに上回っている。当分は解析を諦めて、もしくは重要な一部のみの解析を行って、ただ煌びやかに舞い踊る記号の列を眺めていようではないか。謎はいまだに解けないのである。
 誰でも容易に引き出すことはできる、区切った領域がこの単純な銀河の内側であるならば、煌めき踊る記号の首を捕まえて、泣き叫ぶその声など無視して鞭で叩いて、記号の内の光の粒子や細胞を削ぎ落としてしまうのである。そこまでしなくとも丸裸にされた子供や女の記号はあまりの鞭の痛さに容易に口を割る。記号の丸みを帯びた尻や角張った肩などからは哀れなことに血が滲み出てくる。こんな隷属的な解析の仕方は止めたい。もっと人工的であっても知能を使おうではないか、でも高度な知能が処理しても得られる結果はたかが知れている。ただ単に一つの音節を無意味に叫んでいるということだ。この宙に浮かんでいる記号の本来的な思いや意味は把握できない。ただ叫び声だけが聞こえてくる。
 あまりに乱暴に扱うと、これらの記号はしっかりと音や思いと意味を繋げていないために、情痴事件の死体のようにばらばらにされる。つまりは秘密の一部さえ解きほぐすことができずに、無駄に時を過ごすことになる。この宙の謎は簡単に把握できずに、きっと奥深くに特殊な記号なども隠していて、解きほぐすことの困難性を一層際立出せている。ふと耳を澄ませると、あなたはどこからか響いてくる音を聞いている。話された記号の音ではない、もっと崇高に凛と澄んで規則正しい調べである。この音は海の波のように伝わってくる、寄せる波の調べのように規則正しく繰り返し聞こえてくる、永久に続くように宙の源から聞こえてくる。
 どの位に時が経過したのだろう、何時からと問うことも意味などなくて、記号とはきっとこの宙が誕生したときに母の胎内から飛び散った汚辱血の痕跡である。膨らんだ腹が破裂し胎盤の微細な粒子をも吐き出してばら撒いた残り滓である。ただそれからどの位の時が経過したのだろう、誰も知るはずはないが、母だけは知っている。女であるが故にこの宙の源を孕まされて、活力を持つ形あるものを生み出している。父は正の粒子を励起させる振り子となったまま揺れて、時を刻む凛とした音を永久に波として伝えて続けている。この父が何度も母を孕ませている。この宙の源を何度も母は生み出して、胎盤から記号なる血のこびり付いた滓を夥しく吐き出し続けているのである。
 幾ばくかに時が過ぎても、百年は一年に過ぎず一年は一刻の如くに過ぎても振り子の刻みは永久に続いている。この刻みがこの宙に揺れ続けて、波打ち際を繰り返し行き来しながら凛とした音を伝えている。時間を切り取れば、数え切れない瞬間の波形は数え切れない記号にも似ている。これら波も記号もしぶきを上げずに穏やかに時を巡らせることがあるのだろうか。生み出されたはずのこの宙の源は一粒種である。むしろ、生きのこった子はたった一人しかいないと言うべきである。どうしたことだろう、この宙ではいたぶられた女や子供や記号の泣き叫ぶ声が物悲しく聞こえてくる、この宙には時の刻む音が弱々しくなって泣き叫ぶ声だけが聞こえてくる、あなたがふと見上げれば、天の頂からは夥しい数の女や子供たちが、横長の糸に首を巻いて記号のように吊り下がっている。

詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。