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散文詩「首を吊った太陽に蛇や女」その26

   光の糸が吊る

 太陽が照らしている海に、青い波が揺らいでいる海に、船など一艘も浮かんでいない海に、魚やカモメなどが飛ばない海に、波止場などなくただ砂と崖が続いている海に、さざ波の音だけが聞こえてくる。この海は原初から続いている青々とした豊かな水の量を湛えている、永続的に揺れる波の音やくねり渦を巻く波の音を、さざ波に混じって響き伝わらせている、この宙の果てまで届けさせる、お琴の音の如くに優雅な調べとなって届けられる、穏やかさと張り詰めた静けさの両方の心を包んで届けられる、この幻想的とも現実的とも思われるこの海の音を聞いているのはあなたではない、女である。


 青くて透明である海は明らかに海の底を覗かせている。波打ちながら肌を脱ぐようにして堆積物の積み重なった底を開いて見せつけている。長い年月の間に息絶えた生物の死骸やら、この地の奥から運ばれてきた岩石の欠片や流れ星の屑が積まれている。それはこの明るい光が科学的な反応を行って、いとも簡単に分解などしていない、ただ時を重ねて死骸や岩石や星の屑が静かに積まれているのである。齢を重ねて老廃物を一手に引き受けて墓場のように整然とではなくて、廃材置き場のように乱雑に海の底は積んでいる。つまりは雑多な廃物が海の底には沈んでいるが、波打つ海とは無関係ではなくて海が招き寄せたためとも考えられるのである。


 女は孕んだ胎内の羊水のように揺らめく海を眺めている。どうというつもりもない、ただあなたの体を覆う着物を織りたい。白い指が光の糸を捕えると、指が滑って長い糸の端がこの宙を伝わって青い海の中へと落下する。光の糸に打たれて海は大きく波打ち海の底が裂ける、長い距離が瞬く間に裂かれる。海の底の亀裂はなおも広がっていき、何もが飲み込まれている。積み重なった死骸や岩石や星の屑が底なしに向けて落下していくのである。豊かな水の量が底なしの奈落に向けて滝のように落ち消えている。きっと海そのものが崩壊するのではない、また甦るためにこの海は母なる海の胎内へと、更に飲み込まれているはずである。


 女がひょいと糸を引くと、ひび割れた海の裂け目から光の筋が舞うように糸が引き上げられて、この糸に夥しい獲物が吊り下がっている、幻想的とも思われる風景をあなたは見ることができる。死者たちを干し魚のように吊り下げている、死骸や岩石や星の屑に加えて、これまでに死んだ者たちが薄い干物となって数多に吊り下がっている。濡れてはいずに乾いた肉や骨が平たく張り付いて糸に絡んでいる、絡みながら連ダコが天に昇るように引き上げられている、夥しい量の干物なる死者がこの宙に舞っている。あなたは女がどこにいるのか知らない。本当に居るのかさえ定かではない。でも幻想的に優雅に平たいタコの干物は女が引く糸に絡まり揺れているのである。


 どうやら光の糸はこの海の亀裂そのものに引っ掛かっていて、海そのものをこの地そのものを吊り下げようとしている。血潮のように水がほとばしっている。朱色が天を染める、誰も血など流さないのに、あなたは夥しい干物に続いて、この地そのものが胎盤も含めて吊り下げられていると感じている。鮮血のように岩漿が噴き出ている、死んだ者ではない、死に行く者の断末魔の苦しみのような声が響き伝わってくる。どうしたのだろう、何が、決まっている、幻想とも幻覚とも言われぬこの地の光景は言い知れぬ映像を映しているのではない、この海やこの地を孕んだ血塗れの胎内がこの宙に吊り下げられる、真実の光景として表れ出ているのである。

詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。