刺青_秘密

題:谷崎潤一郎著 「お艶殺し」「刺青・秘密」を読んで

谷崎潤一郎の主要な作品は今までに読んでいる。でも、結構短中編の作品があって少ずつ読んで行きたい。というのは、日本の文学における代表的な文体を知りたいためである。夏目漱石と谷崎潤一郎などが大切である。付け加えるとしたら森鴎外、三島由紀夫に大江健三郎でくらいか。でも、それ以上思いつかない。また、気付いたら当然、新しい作家も加えたい。なお、詩人は省きたい。詩人の文体を論じるのは別の機会にしたい。無論、谷崎潤一郎の作品そのものを読むことも楽しみである。

なお、谷崎潤一郎の読む作品は中央文庫、新潮文庫などの文庫本である。中央文庫から発刊されている「潤一郎ラビリンス」は省きたい。殆どの作品が入っているようだが、今までに読んでいた文庫本と同じものがあり無駄を避けるためである。また、「谷崎源氏」は未定。「源氏物語」をどう訳しているか知りたいけれど、「源氏物語」は古文で読むのが良いのである。でも、少しは眺めてみたい。さて、「お艶殺し」は「お艶殺し」と「金色の死」からなる。「刺青・秘密」は「刺青」、「少年」、「幇間」、「秘密」、「異端者の悲しみ」、「二人の稚児」、「母を恋うる記」の七つからなる。これらの作品の内容を簡単に紹介したい。

「お艶殺し」は駿河屋の生娘、お艶と律義な奉公人新助は恋をしている。舟遊びなどで知り合った船頭清次の手を借りて駆け落ちをする。だが、新助は行きがかり上、清次の手下やその妻を殺す。清次もお艶を物にしようとしていたのである。こうしてお艶はお金がなくなり、徳兵衛の世話で芸者になり女将になる。自首しようとしていた新助はお艶に会いに行くが、お艶に乞われるまま居座る。芸者になってもお艶はまだ貞節を守って新助を好いていると言う。ただ、あこぎに客を騙して金稼ぎをしている。そして新助とお艶はこの徳兵衛も殺してしまう。騙し相手の旗本の芹沢にお艶は会いに行くが、実はもう好いていてお艶は貞節を汚している。騙されていたと知った新助はお艶を殺すのである。

「金色の死」は作者自身がモデルらしいとのことで「異端者の悲しみ」に似ている。ただ、「金色の死」は横文字の記述があり、かつ芸術に関しても述べられている作品である。私の友人岡本君はとてつもないお金持ちである、商売繁盛している店の子である私と二人とも秀才である。ただ岡本君は数学を嫌うなど私を凌駕することができない。この岡本君が大きくなって自らの財産を自由に使えるようになる。すると、自らの芸術を創造する。即ち、広大な敷地に建てられた宮殿などに、多数の彫像や画を披露するのである。ただ、ある日彼は金箔を自らに塗って如来を模すると、体中の毛穴を塞がれて朝方に死体となって発見されるのである。

「刺青」はいわゆる処女作である。清吉は光輝ある美女の肌に己の魂として刺青を掘るのが願望である。ある時見染めた小娘と偶然再会する。娘は芸妓の妹分で使いにやってきたのである。死骸や処刑する男どもを眺める妖艶な妃の巻物を見せて娘の本性を教え口説く。尻込みするけれど娘は自らの本性を認めて刺青を彫ることも認める。清吉は魂を打ち込みことを成すと、娘の肌に浮き上がる女郎蜘蛛は、娘そのもの言葉と心をもはや魔性に変えている。「少年」は私と財産家の塙信一とその腹違いの姉光子、それに貧しくともガキ大将の仙吉との幼き日の話である。信一は外では内気だが、自らの家で遊ぶ時には遠慮なく横暴である。光子さえ手加減しない。ただ、光子の反逆にあい、私や仙吉が光子の手下になると、光子が増長して三人を奴隷のごとく扱う女王となる。私や仙吉が光子に呼び出される西洋館、この館における蛇の描写が印象的である。

「幇間」とはもと兜町の相場師が幇間となって客の御機嫌取りを唯一の楽しみとしている話である。この幇間に惚れた女の梅吉ができる。この梅吉と幇間を取り持つ旦那が一計を案じる。いわゆる催眠術である。果たして幇間は梅吉に催眠術をかけて懇ろになることができるのか。「秘密」とは昔関係のあった女と偶然再会する。この女に会うために目隠しをして幌に乗る。どこをどう走ったか、ある時目隠しを外させて看板を記憶する。この記憶をたどり歩いて女の家を見つけのである。秘密とはこの女の居場所である。「異端者の悲しみ」とは貧しい章三郎なる学生と両親、肺病でもはや死にそうな妹、それの学生の仲間たちとの話である。章三郎は芸術家志向であるが、両親や妹とは諍いを起こす。貧しいが故に仲間には金を借りて不義理をする。卑屈な男でもある。ある時それほど親密でなかった鈴木に五円の金を借りて遊ぶ。その鈴木も体が弱くて死ぬ。章三郎は瓶に詰められた遺骸と共に田舎までは付き添わない。催促されていた五円の金を返さなくとも済むのを悦んでいる。酒に頼る日が続き、そして肺病病みの妹もとうとう死んでしまう。

「二人の稚児」は、比叡山の偉い上人の元で育てられた稚児、そのうちの一人が下界の女人に憧れて逃げ出す。幸いなことに金持ちになり女人の群にかしずかれて暮らしている。こうしたためた手紙を受け取り、残された一人へ抜け出すように誘う。女人に焦がれるけれど肯ぜず、この者は寒風のなかを山の頂上へと登る。一羽の鳥が負傷し血を滴らせて喘ぎ苦しんでいる。この彼女の肌に覆いかぶさるようにしている、この者に粉雪か鳥の羽毛がはらはらと降り落ちてくるのである。「母を恋うる記」は、私はもはや貧しくなった家を飛び出す。明かりの付いた家を見つけて、お母さん何か食べさせてくださいというけれど、婆さんは冷たくて飯を食わせてくれない。そのまま歩いていくと三味線の音を聞く。若い女である。音色が夜に響きわたる。小母さんとか姉さんとか言って附いて行くと女は泣いている。私はお前のお母様じゃないかと女に言われて、目を覚ますのである。

各作品の発表時期を示したい。なお、谷崎潤一郎の生年月日は1886年7月24日である。
刺青(第二次新思潮 1910年11月)
少年(スバル 1911年6月)
幇間(スバル 1911年6月9
秘密(中央公論 1911年11月)
金色の死(東京朝日新聞 1914年12月)
お艶殺し(中央公論1915年1月)
異端者の悲しみ(中央公論 1917年7月)
二人の稚児(中央公論 1918年4月)
母を恋ふる記(東京日日新聞 1919年1月)

結論から言えば、これらの作品群は「春琴抄」や「細雪」に至るまでの習作と言える。文章に苦労していろいろ変えている、また物語としての奥行きが不足しているのは否めない。無論、相当に稀有な才能があることは認める。けれど、「春琴抄」や「細雪」を読むと、これらの初期の作品はまだその才能のすべてを開花させていない。これらの作品の中では「刺青」、「少年」、「異端者の悲しみ」、「母を恋うる記」などが良いと思われる。

「刺青」は恐ろしい才能を感じさせる作品である。ただ、娘の心の記述によどみがある。奇怪な画を見せられて、どうしてこんな恐ろしいものを私に見せるのかと娘は問う、娘は心の底に潜んでいた何ものかを探り当てられた心地がしている。お前の未来の姿を絵に現したものだと言われると、娘は早く画をしまって下さいと要求する。お前さんの側にいるのは恐ろしいからという。でも、立派な器量の女にしてやると言われ、娘はそのまま刺青を入れるのを受け入れるのである。こう記述すると娘の心の筋が通っているように思われるが、そうではない。この描写には、既にそういう性分を持っていると認めても恐ろしがっている娘が、なぜ刺青を彫らせることを許すのか心理的な流れがスムーズではない。刺青を認める娘の心理がとても理解しがたいのである。

普通、立派な器量の女にしてやると言われても、恐ろしければ逃げ出すはずである。ただ、「ああ、美しくなりたい」との娘の言葉が一つ入れば良い。「娘の心の底に潜んでいたものが蠢きだして顔を染めている」などの描写がちょいと入れば良いだけである。無論、事後承認として刺青後、美しくさえなるのなら、風呂に入る苦痛など、どんなにでも辛抱して見せましょうよとの娘の言葉が認めたことを示している。また、女郎蜘蛛を彫られた後の妖艶な女への娘の変貌は分かるけれど、結局、この作品は谷崎が思い描いていた観念を作品化しているのであって、心理は付け足しである。文章が読ませるけれど、この文章に記述された心理には幾分隙間がある。だが、谷崎にとってそれほど重要なことではないのである。作品を読み比べると分かるのであるが、夏目漱石の心理の追求とは違ってと違って、谷崎は筋と文体を重要視しているためである。この辺りは谷崎潤一郎論を書けば、その中で示詳細を示したい。

「お艶殺し」は戯作調の馬鹿々々しい話である。でも、これらの作品の内では一番良いと思われる。移ろいゆく心と行動そのものを描いて人間の馬鹿々々しさが浮き彫りになっている。この粗くて単純に動く心そのものに、文章をより繊細・緻密にして日常生活を描けば「細雪」なる作品ができあがるかもしれない。それには谷崎の文章生活に何十年もの長い時間が必要であったに違いない。「少年」は最後に光子が女王に変貌する他愛もない話である。西洋館における蛇の描写などが淫靡さを含ませていてとても描写力がある。「秘密」と「幇間」は過去形で表現して新たな文体に挑戦している。「幇間」は軽妙さと哀切を含ませようとしている。「異端者の悲しみ」は谷崎自身をモデル化しているとも言われているが、貧乏学生の悲哀が肺病やみの妹と両親との諍い、それに同輩への卑屈さがうまく表されている。金を借りた鈴木君の死、妹の死際の両親の思いやりある看病などが良い。でも、夏目漱石の「行人」の雛子の死んだ日のように悲しみが伝わってこない。それは、谷崎が死を見詰めていないのではなくて、生きている体そのものに関心を持っているためであろう。異端者の悲しみとは、極論すれば貧しくて豪勢に女遊びのできないことにある。

「母を恋うる記」も漱石の「夢十夜」を思い起こさせて、なおかつ色に音など六感を駆使した描写が素晴らしい。ただ女の会話や描写となると冗長気味になる。この女は不可思議さが消えて、そこらのお姉さんに成り代わってしまう危険さを含んでいる。この「母を恋うる記」の文章も谷崎としては簡素簡明で、かつ俗語を用いるなどやはり文体を試行している。こうした谷崎の短中編の作品はもっと読みこなしてから論じるのが良い。ただ、言えることは文章の華麗さとは裏腹に物語としては俗っぽさがあり、読み終わると心に残るものが少なくて、それっきりになる。こうした谷崎の作品を年老いるごとに分類してまとめると特徴が分かってくるはずである。

以上

詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。