首を吊った太陽に蛇や女_-_コピー

散文詩「首を吊った太陽に蛇や女」その21

   女は生み出すのか

 女は老婆でありながら宙である、どうしてもこの宙を抱いてしまう、胸に抱いては丸まりながら眠っている。抱いた宙がどうやら空っぽで、女は何も生み出すことのない空洞そのものを抱いている気がする。老婆であるからには当たり前のことだ。干乾びた空洞は古代史の発掘現場みたいに、見世物のミイラだけを並ばせている。嘗ては艶っぽい肉を見物人の前にさらけ出していたが、恥ずかしいとも思わなかった。体を見せるのが商売であるから今でも若くて艶っぽいはずである。あなたがそうと認めてくれさえすれば、この日のうちにミイラは若々しいこの宙のような素敵に色を染めた体を見物人に提供できるだろう。


 嘗てあった陽が今はない、正しく大いなるこの宙の空洞そのものが、嘗ては夥しい熱と光を持っていた、輝かしい陽の欠けた空疎な時空そのものがもはや女の住処である、女の胎内そのものである。陽の身代わり人はまだやって来ない、またこの空なる内を埋めるための夥しい熱と質量を持った新しい陽が女を抱きなどしない、というより女がまだ陽を生み出していない。女こそが新しい陽を胎内から生み出さなければならないのである。古代の女王がそうと望めば何でもできるように、複数の男が種を付けさえすれば、胎内に複数の陽を宿し育てて、空疎な空間に向けて勢いよく泣き叫ぶ陽の赤子を、この日のうちに生み出すことができるはずである。


 なぜそうしないのか、もう老婆でかつミイラなる女にはばかばかしい行為であって行わないと決めたのか、もしくはこの宙も男たちも正当な膨張を止めることができずに、風船玉のように破裂してしまっていないためか。この宙には均衡はないし縮小は在り得ずに、膨張して爆発だけがある。女は古代の遺跡から掠め取ったミイラを食べ尽くして自らの胎内に並べると、干乾びたミイラの男どもや女たちが雨晒しの死人のようにこの宙に並んでいる、きっと女は空洞なるこの宙に居て、まだ眠りから覚めていないのかもしれない。優しく撫でられれば肌の艶が甦って遠い昔の艶事を懐かしく思い出すだろう、きっと目覚めれば男を求めたくなる、女は老婆ながらこの宙のいまだ嘗てない加速された大いなる膨張を望むはずである。


 隠されていて現れなかったあなたの余分な複数の次元の手が伸びてきて、この空疎な空間そのものの女の空洞に触れて思わずに滴らせる、艶っぽい透明な肌の表面に捧げる成分は精虫のように動き回ったりしない、けれど女への心のこもった贈り物である。どこから拾ったのか硝子の欠片から作り出した偽物の指輪であるのか、小さな粒子の欠片の飾り物も付いている。女は輝く指輪を指にはめてにっこりと美しく微笑むであろう、涙を浮かべてむせび泣くように喜ぶであろう。目を覚ましさえすればこの確かな現実が許容されるべきものとして認められる。この時空の住処にはもう愛する人たちしか居ない、空疎であるが故に古代の発掘現場のように多数の男たちの採掘機を握る多次元の手は必要なくて既にあなたの手しか無い。


 もとから誰もが居ない、まだ見つからぬ次元の彼方に隠れているのか男たちは、女であってもこの宙のどこかに居るはずが見えずに居ない。あなたはそそり立っている、波の荒い岸壁のようにこの波長を従えた透明な肌に恋をして、種馬になろうとしている、どの空洞が女そのものの空であるのか分かりはしないが、変わらずに嘲笑う声が聞こえてくる。もしや女そのものの声なのだろうか、女は安っぽい偽物の指輪では許しがたく騙されはしない。透明な肌を提供することはない。特に受精などしなくとも良い、必ずしも古代のように子供やミイラや日を継ぐことのできる陽を宿して生み出さなくても良い。あなたを受け入れることなどしない女は老婆ではなくて艶っぽくてミイラでもなくて、空虚な空洞をこの宙に晒していて、悩ましくも空洞から声を漏れ出している。

詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。