見出し画像

散文詩「首を吊った太陽に蛇や女」その24

   この蛇を憎む女

 女はこの蛇を憎む。絡まってくるからである体に、食い込んでくるからである肉に、束縛されているというのにどうしても甘く蕩けさせられてしまうからである、心が肉や骨が、思わずに頬ずりしてしまう身を捩らせて、長さがあり巻き付く適度な太さもある、蛇の正体はきっと太陽が放った光の波を束ねて作った紐であるに違いない。この宙に蜘蛛の巣のように幾重にも張り巡らせて待っているのではない、束ねた糸が紐となって伸びてくる、蛇となって否応にも巻き付いてくる、まるで意志を持った生き物のように肌を裂いて食い込んでくる、苦しくても甘美な夢を見ている、きっと死にそうに意識を失いかけても望んでいることであり、でも憎んでいることでもある。


 女はこの蛇を憎む。望んでいる自分を憎む、心や肉や骨を憎む、蕩けていく自分を憎む。何を成さなければならないのか女は知らない、この宙では成すことなどない。自動的に定めているプログラムなどありはしないのに、女は蕩ける夢の中で必死に叫ぼうとしている自分の分身を見る。それは底しれぬ黒い瞳と、透明に清んだ瞳と、燃えるように赤い瞳を持つ、瞳の中に蛇を飼う女、描き得ぬ自分の美しさに酔い痴れている、彫像のように白い肌を持つ女である。もうすぐ肉も骨も溶けるであろう、例え憎んでも巻き付かれた者は蕩けて溶液になる。ガラス製の試験管に収まり切らない夥しい蕩けた液体となって女は流れ出すのである。


 分身であっても女自身であっても、例え憎み逃れ出ようと思っても、自ら望み巻かれていても、女はこの宙の空洞の中に流出してしまうのである。それは墓場のように肉や骨が埋もれているのではない、流れた液体が微細な粒子の電子の雲として、無量の大数の数ほどに浮いているのでもない。全てが消えて無くなってしまう、なぜにどうしても、液体を乾燥させて骨と皮のミイラにしないのだろうか、女は蛇の体を抱き締めながら蕩けて溶解し始めている。この宙の空洞の中に滴り始めている、この女は夢を見るその瞳の中に蛇を飼う女ではない、彫像のように白い肌を持ち死んで横たわっている女でもない、女そのものの概念である。


 太陽が居さえすれば、光があるというのに太陽はなぜ居ないのか。大いなる空洞をこの宙は抱えていて、きっと流失した女の液体は空間上の傾斜を流れてそのそこにたどり着いてミイラとなるはずなのに、肌と肉と骨に黒髪を添えて手に白い花を持つ、華美で華奢な指先に握る造花のような花は枯れないけれど、流れついた女の液体は齢を重ねて枯れた老婆となる。肉や骨が物質の形を象って横たわり、枯れ干乾びた肌が褐色の痩せた体にこびり付いたミイラとして艶めいている、そうなるはずなのになぜにそうならないのだろう。慰めはいらずにもう女は絡まってくる蛇を憎んではいない。そうならないならならなくともよい、朦朧とした意識の中でどうでもよくて女は静かに過半が溶け出ている。


 燃えるように赤い瞳が見詰めている。底無しの黒い瞳の奥に流れ込もうとする女を、透明に清んだ白い瞳の奥に流れ込もうとする女を、この女たちは誰だったのだろうか。溶けて流出しようとする女の浮かべた思いであるならば、心に浮かんだ思いの残像であるならば、同じようにどれもが流失されるべきである。だがまだ蛇と絡んでいる女が居る。蕩ける肉や骨を持つ女が居る、蛇を抱き締めて愛し続ける女がいる。白い首をのけぞらせる女がいるのである。この宙では赤い瞳がじっと見詰めている。それは流出し消えた女の幻想でも分身でない、小さな炎のように燃えている視線である。もしや太陽の甦ろうとする思いの炎なのか、とにかく鋭くて赤い燃えるような視線がじっと絡まる蛇と女を見詰めているのである。

詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。