首を吊った太陽に蛇や女_-_コピー

散文詩「首を吊った太陽に蛇や女」その22

 禁忌を破る女

 消えたとしてもまだ太陽はそこに在るに違いない。穏やかな日差しが降り注いでいる、この宙にはまだ光が揺れて露に光っている、微細ながら緑色をした薄い葉の裏側へと透き通って、この地の竹林や蜜柑畑や風の舞う砂地の表へと忍び込んでいる。きっと藁葺き屋根の隙間をも透過して女を照らし出している。太陽はただ女を照らし出すためにこの宙の空洞に在るかのように振る舞っている。女の空っぽの胎内に宿るのを止めて太陽はもう一度甦生して、錯覚でなければ自らの命をこの宙に甦らせたのである。新しく生れ出たのではない、この宙や女の空洞に形を失って宿り埋もれていることが耐え難かったために、女に吐き出されるとすぐさま生き返ったのかもしれない。


 いとも簡単に女やこの宙が太陽の甦生を許すだろうか。この宙の無秩序は無目的に増大し、生物は無目的に自らの命を生み出すことができるはずである。誰もが禁圧も許可も受けない、目的を持たなくとも無目的な自由の恩恵を受けることができるはずで、太陽も自由に命を持つことができる。藁葺き屋根の下には茣蓙が敷いてある。全くに琴糸のようにしなやかに弾まない茣蓙は荒々しく敷かれている。瞽女(ごぜ)の禁忌を破り奏でる音は琴でも三味線でもない、声の音である。否が上にも盲目の女があげる吐息のような甘く切ない声である。照らされた女のくねる肌は白い、何故と言うより自然に体が絡みついて横たわっている、その体の面が蛇のように細くて白いのである。


 女は男を抱いている、男であるに違いない抱かれている者は細い体に巻かれて今にも悶え死にそうである、女を強く抱き締めて女に甘い声を漏らさせているはずが、低い呻き声をあげているのは男である。男が無理やり禁忌を犯したのではない、女が茣蓙の上で蛇のように絡まりながら掟を破って男を抱いて唄を歌っているのである。まもなく男は快楽以上に心と体の狂うような悶絶に苦しみ死ぬであろう。たとえあなたであっても死なざるを得ない。藁葺き屋根の小屋の入口の前には男たちの行列ができあがっている、確かに小銭を手に握った男たちが無言で順番待ちをしている、小銭の鳴る音、それだけが確かである。


 絡み付かれた体は溶ける、確かに粘液となって流出するが、女は啜り飲み込んだりしない。汚辱血のように汚れた残滓を胎内には納めることもしない。藁屋根の隙間から漏れ込む細い太陽光が淡い色に輝やいている、ただ溶けた液体は照らされ輝くことが無くて、そのまま茣蓙に浸み込み土の中へと瞬く間に消える。この白い裸体の横たわる茣蓙の下には途方もない空洞が隠されているはずである。それは女の諸々の命を宿す胎内でもなく、太陽が消え去った後に残された空洞でも、吸い込まれて二度と戻ることのできないこの宙の暗黒な空間でもない、ただこの地の褐色の荒い粒子でできた、底無しに染み込んでいく幾層もの土の内に在る空洞である。


 竹林の奥にまで行列がある。女は吐息のような甘い声を吐き出し続ける。だがどうしても数が減らない、次から次へと小銭を握った男たちが現れて女を求める。一層のこと女は大蛇になって何千人もの単位で快楽を共にすれば良いのであるが、なぜか一人一人との約束を守る。もしかしたら小銭とは、この宙の黄泉の国へと渡る掟として定められた、決して破ることのできない船賃なのかもしれない。女は盲目の目を開ける、蛇のように視点の定まらない冷やかな白目が屋根の隙間を通して太陽を見る。確かに淡い光を放っているこの陽が、女の意向に従って少しずつ溶け始めているようだ。死んだはずの太陽が輝くことは瞽女が男を抱く以上に禁忌なことである。

詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。