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題:レーモン・ルーセル著 岡谷公二訳「アフリカの印象」を読んで

少しずつ一ケ月以上かけて小刻みに読んで、読む終えたらこの小説の内容が良く分からなかった。主人公らしき人物がいるが、それ以上に登場人物が結構多い。それに、彼らの遭遇する、もしくは引き起こす出来事が、横道に逸れた物語も含めて、これまた多いのである。文章は事実を羅列式に述べるようでも、結構味わい深い。現実の事実が並べられているようでも、逆に幻想的でもあり、修飾語も味わい深いものがある。おおまかな筋を数頁ずつ捲りながら調べて、岡谷公二の「解説」を読むと、最初に抱いた印象がそれなりに当たっていたと言える。即ち、ヌーヴォーロマンの筋無き小説の系譜を引いている。「解説」によると、ルーセルはピアノ科ではコクトー、オーベール、ラパラらと同窓で、まず音楽と関わりを持っていたのである。彼の神経症を治療したピエール・ジャネは、ルーセルの作品の価値を認めていないが、彼に向けて、ルーセルは自分は天才だと信じて、栄光を感じている言う、即ち「栄光の感覚」が彼に一生付き纏ったのである。
 
ピエール・ジュネによると「ルーセルは文学上の美についてきわめてきわめて興味深い観念を抱いている。作品は、現実のものは何一つ、まったく想像から生まれた組み合わせのほかは、世界と精神についてのいかなる観察も含んではならない」と言うのだ。ルーセルは神経症から現実拒否を行っていたと思われる。こうして「解説」では自殺後に発刊された「アフリカの印象」について、数字や単語に発音が繋がれて、その発想源を指摘しながら、彼の想像力について述べている。そして、本書が第一部と第二部に分かれていて、第一部では黒人なる皇帝タルーの聖別式に、漂流して捕らえられた客船リュンケウス号の船客たちが演じる園芸や展示を記述している。第二部ではリュンケウス号の難破・漂流の経緯、船客たちの演目の成り立ちまで、第一部で記述された項目の謎解きが行われていると述べている。いわば、今までにない特異な構成の文学なのである。それがすぐに本書を理解できなかった原因らしい。
 
シュールリアリストにとって、ルーセルは偉大な先駆者であると訳者の岡谷公二は述べている。即ち、ブルドンが「シュールリアル宣言」で、ルーセルはシュールリアリストだと述べても、彼らは単にルーセルの熱烈な支持者だったにすぎないと言うのである。それからルーセルの好きだった作家や読んだことのない作家を並べている。好きな作家の名前は良く知らないけれど、読んだことのない作家は、ランボー、ジャリ、アポリネールなど有名人が多数含まれている。即ち、ルーセルは過去の栄光者のしがらみから抜け出ていたのだろうか。ブルドンの霧がかかったような街を歩いて思い浮かべる想像力に心理の鍵を託して描く手法とは異なり、ルーセルは事実に基づいた、事実とも言える表現された風景を心理的な動きを抜きにして、単に目的を達成するために行動させて記述しているのである。
 
私はシュールリアリストというより、言語空間を作り出そうとして言語を駆使するヌーヴォーロマンの作家と比較するのも良い方法だと思う。ヌーヴォーロマンの作家は多種多数である。だが、アラン・ロブ=グリエやナタリー・サロートと比べるのが良いと思う。ロブ=グリエの視線が心理を抜きにしたこの世界の表層を巡り順繰りに描くのとは異なって、ルーセルの言語空間は別々に積み重ねてこの世界の出来事を駆け抜けて行くのである。無論、順繰りではなくて、突如として別の出来事に物語が挿入される。そして、ナタリー・サロートのように内的心理を問い詰め繰り返し語ることなどしない。心理が抜きにされた、もしくは好きか嫌いかだけの単純な心理に基づいた出来事だけが人間を繋なげているのである。
 
ただ、アラン・ロブ=グリエの視線の文学やナタリー・サロートの言語が繰り返し織り成す心理小説は読みにくいし、面白いとは思はない。けれど、ルーセルの「アフリカの印象」も確かに読みにくい。でも、一つ一つの出来事や生じる物語の連関は薄くとも、それぞれ筋は簡潔に表現豊かである。強烈に印象に残る表現は黒人なる皇帝ルーの権力の横暴さと小児性である。残酷に死刑を執行しながら、金もうけを考え、子孫を増やし、更に芝居に出たがる小学生のような小児性を持っている男なのである。二部の女流探検家ルイズと皇帝ルーが愛する娘シルダは、この作品なの中では皇帝ルーと共に一番記憶に残る。他の大勢の人間たちは名前が記載されていても、まったく記憶に残らない。無論、時間を飛び飛びに使って長期間にわたり読んだためであるのかもしれない。
 
いずれにせよ、本小説をシュールリアリズムやヌーヴォーロマンの小説の区分の内に入れても入れなくとも、「アフリカの印象」なる小説ははやはり特異な作品である。それらの小説区分の枠を超えて真新しい表現形式で書かれている。とても印象に残る作品である。きっと、言葉を並べ駆使して現実とも幻想とも思われる言語空間を、アフリカの内に作り出した小説が奇異なのであろう。きっと、アフリカの印象が音楽や絵画や生き物も含めてルーセルの脳内にこびり付いているのだろう。もっとも、ルーセルの他の作品を読んでみたいとは思わない。やはり、アラン・ロブ=グリエやナタリー・サロートの小説のように読むためには大いなる気力が必要なのである。
 
「ドゥルーズ 千の文学」では、國分俊宏が「ルーセル 差異と反復の実践者」と題してドゥルーズのルーセル評を質の高い文章で書いている。ここで、この短評論の内容を紹介したい。原文を読んでみないと分からないが、単語などは一音を変えてルーセルは異なった文章を作る。つまり差異を持ち異なった物との間の距離を物語によって踏破する。即ち、ルーセルは語の内部の空虚を広げて、その空虚を反復する差異を伴なった幻想譚で埋め尽くして物語を作る。この反復の内にこそ事物たちは生きていて増殖し続ける。注意すべき点は言葉を引き延ばす「手法」と事物を引き延ばす「描写」との切り離し難い連関があることである。ドゥルーズはフーコーを論じつつ、この言葉と物との関係、「話す」と「見る」との関係にこだわっていると述べている。この「見る-話す」という主題の分離は、フーコーにおいては、ルーセルの手法のように語や文や節を切り裂き、開かなければならないのである。フーコーは言葉と物の両面にかかわる作業をルーセルとともに見出したとドゥルーズは述べているとのこと。少し分かりにくいが、フーコーの「言葉と物」を読んでみれば、この本の主題は言説を物との関係で捕らえているはずである。そして、あの、最後の有名な言葉、波打ち際の砂のように消えるだろうということになる。消えるのは無論人間である。
 
ここまで書いたら、これ以上書けなくなったので感想文は終わりにしたい。「アフリカの印象」の最後がどうであったか思い出せない。彼らはきっと難破船を修理するか、別の船に乗って祖国へと帰還したのだろう。そして、皇帝ルーは娘シルダを愛していて横暴さを強烈に行いながら、即ち女たちに生命を生み出せ、かつ残酷に死人を作り出しながら権力を保持しているのだろう。
 
以上

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詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。