短編集表紙-1

短編小説その15「熱気球と太陽」

       熱気球と太陽

ある晴れた日の朝、熱気球は空高く昇り始める。蒼空に大きな気球がゆっくりと飛翔する。次第に遠ざかる、見送る人の居ない地上からはとても小さくなり、終には見えなくなる。誰も見送り人が居ないそのことが問題なのではない、誰が見送るべきかも取り立てて論点ではない。こう言えばどれもが問題ではなくて、乗っている人が居ないことさえ瑕疵があるとは考えられない。バーナーの火が赤く燃えて浮力のついた空気が蒼空の遠くへとより気球を運んでいる。次第に空気の層も薄くなり、気球の命運も尽きるはずと思われる。けれどそれでも熱気球は昇り続けるのである。きっと推力の転換が成されたはずである。バーナーではない何かの推力機構を備えてもはや昇り続けるのではなくて、宇宙空間を飛行している。まさかイオンを噴出させてなどいない。光子の風圧を逆に推力として利用できるはずもない。太陽光による発電がなされて推力源としているでもない。でも確かに遠くへ運ぼうとする推力は確保されているとみえる。熱気球は太陽光を浴びながら青く暗い宇宙空間を飛行しているのだろうか。相対するものが見えないためにどの程度の速度で移動しているかは分からない。ただそのまま浮遊しているだけにも思われる。太陽光が熱く照らすその光を浴びながらじっと空間内に留まっている。バーナーの火は酸素が不足してもはや消えているためだろうか。この気球の床面積はとても小さい。バーナー装置の周りに数人蹲るだけの面積しかない。無論、誰も居ないのだから、床には転がる物などなくて剥き出しの茶色いちゃぶ台のような色をした床が露出している。


この熱気球の作成時に忘れたのか、小さな布製の袋とポテトチップスの袋が床の上にある。忘れたのではなくてわざと置いたのかもしれない、もしやこの気球は誰かが作成した実験用の気球であり、この地球から予定通りに宇宙に向けて打ち上げられたのかもしれない。それなら見送り人が居ないことが不思議である。いずれにせよ気球は飛行し続けるしかない。丸く大きな気球の陰に隠れたためか、床の色が灰色に陰ってその濃度を増している。少しずつ色を黒く染めてくる、そしてこの床の上の袋の端が破れて小さな動くものが出てくる。ネズミである。更にもう一匹のネズミが齧った袋の端から出てくる。番であるのか分からずとも、互いに寄り添いながら不安げに歩き回ることなどせずに留まっている。頻りに口を動かしている。ポテトチップスの袋を破りチップスを食べている。粉々になって床に零れ落ちた屑さえ嘗めている。それほどに空腹であったのか、でも袋は一つしかなくてその量は知れている。大きいネズミが横取りするのではない、均等に分配し食べている。番かもしれないという推測は妥当とも言える。頻りに食べ続けるとすぐに袋は空っぽになる。諦めきれずにネズミは袋を裂いて味の染みついた内側を嘗める。それにも飽きてもはや何もすることがなくなると体力を温存するのではない、気球の側面のビニールシートを齧っている。食の足しにならないと分かると床に二人してただ蹲っている。自らの置かれた立場を知っているわけではないのに、来るべき運命に備えているわけもないのに、哀れに見えようとも誰もが何をすることもできずに、知らずうちに実験用のネズミとしての役目を果たしている。


太陽は照り輝いている、この宇宙に赤く燃え盛っていても、熱気球の床は暗くて寒い。とても寒くて二匹のネズミは抱き合いながら静かに眠っている。まるで袋の中から飛び出たことが間違いであったように、もう平たく潰れた袋の中に戻ることはできずに、袋に乗って少しでも寒さをしのげるようにして安らいでいる。この気球はどこに行くのであろう。実験用の気球であれば目的地は定まっている。まさか宇宙を浮遊するはずなどなくて、何処かの地に降りるはずである。蒼空を超えて宇宙を飛行していると思っていたことが間違いであって、まだ青い空の淵を飛行していて次第に降下してくると考えるのが妥当である。ガスバーナー以外の推力装置などないはずである、宇宙へと飛び立つことはできない。不可能なことは実現されることがない、夢の中であってさえ難しい。ただ真実は実験者が見当たらないために誰にも分からない。真実は謎に包まれている。こう思っている時でさえ飛行続けている熱気球は、もしや最初に述べたように可能性としてこの宙の何処かを目指しているのかもしれない。目的地は太陽であることも十分に考えられる。誰がどう思おうとも目的地は太陽であると言い切ることもできる。好き勝手に推測できるのである、熱気球の操作は飛行船であれば操縦可能であるように、推力装置を取り付けた誰かが自動プログラミングしているか、この地上から指令を送出しているかもしれない。見えずに隠れているわけではない、この指令は立派な建屋の奥から電波によって行なわれている。すると目的地はこの実験者の定めた飛行プランに記述されているはずである。まさかこの地の少し離れた空き地が目的地ではあるまい、相応に威厳を持って目的地は遠くの宙でなければならない。


太陽は威厳を持って光を送出し莫大なエネルギーを供給している、まるで神である。創造する神のような神聖さを持っている。この太陽の高貴な神聖さと比較できるものなどない。目的地は太陽でしかない。実験者が居ようと居まいとこの熱気球の行きつく先は太陽にするしかない。この半ば薄暗く青く染まった宇宙空間を突き抜けて太陽へと熱気球は突入する。その熱い炎の中へ身を焦がすようにして降下し焼かれるのである。いつしかネズミの番は目を覚ましている。起き上がることはしない、ただ蹲っている。もはや起き上がるだけの活力を持っていないのかもしれない。時間の感覚が失せてただ蹲っている。それでもネズミの手や足が互いを引き寄せて抱き締めるように動いている。死ぬ前の痙攣に似ている。どうすべきなのか、誰であっても救い出すべきと言うであろう。ただ実験者の意図が分からなければ救出してはならない。高貴な試行されるべき思考は経験を積んで、この気球が繰り出す貴重なデータを蓄積しなければならない。これらのデータを有効活用する実験者が居なくともデータは収集されなければならない。誰もが使用しなくとも過去の事例として記憶されるのではない、たぶん消去されるであろうとも、この映像や静止画はましてや生に聞こえる声でさえ丁寧に記録して積み重ねるべきである。もはや値打ちがなくとも煮えたぎる太陽の中へ突入するこの貴重なデータを、この宙のすべてに開示すべきである。きっと誰かが拾い上げるであろう、この静けさの内に価値を見出す者が居るであろう、どうしても絶滅する生物種の最後の行動を知りたがる者がいる。ただ最後の行動とはもはや吐息さえ聞こえない無言であり無力な無行動である。


番は抱き合っている。最後の力を振り絞って愛を成し遂げている。彼らにこの気球の行く先と運命を知るわけはなくとも静かに番っている。番うとは魂を奮い立たせて肉体を限りなく燃え立たせることである。冷たさを乗り越えて肉体を静かに愛の炎に包むことにある。体温は常以上に上昇し鼓動は脈々と波打って、維持されるべき生命は自らを乗り越えて他者のうちに同一になることによって、新たな自らを産出し維持しようとする。こうした説明では不十分である。この行為を成さなければならない理由などなくとも、どうしても番わなければならない、この状況下においては唯一の選択肢であるとも言える。ネズミは互いの体を齧っている、飢えた心と体が他者を齧って貪っている。愛の高まりにおいてもはや自らの思うままに他者を食物として取扱い、物質化した他者が忌み嫌おうとも思うままに事を成している。心と体が傷つくとも少しも厭わずに続けられる愛に満ちた行為は、もはや愛を欠損させて心と体も損傷させて深く入り組んだ体が断片となって転がっている。元の体にもはや戻れないのではない、新たな生命が生み出されている。当然の結果として互いの肉の欠片ではない、目が見えず動こうとする子ネズミたちが居る。小さく泣き叫んで子ネズミたちは母を求めている。母なる乳房はもう断片となって何処にもない。見出したとしても乳を出すことはできないであろう、父からも乳は与えられずに、もはや愛の行為のうちに溶けて断片となった父を乳として吸わなければならないのかもしれない。如何ともしがたくてもはや子ネズミにどうすべきか成す術は限られている。


こうしている間にも熱気球はこの宙の中を太陽に向けて飛行している。飛行船として太陽に向けて飛んでいるのではない、もはや気球は常に落下している。そう遠からずに太陽の内に入り込んで溶け込むはずである。気球と太陽の相互の位置が変わったためか、光の粒子が熱気球の床を明るく照らし出している。番った番やその子供たちの輪郭のはっきりした姿形が見える。確かに明確に姿形を持つけれど、その姿は床に浮いている欠片のようにも見える。どうしても定まった形を持たない、さまざまな形をした物質が床の上を流れているのである。少しずつ粘液となって断片が溶解している。ただ小さく叫ぶ声が聞こえている。何処の誰かが発しているかは区別がつかなくとも床の上から発信されている声がある。誰かに向けて泣いているのではない、自らが泣く以外に方法を持っていない。床の上を粘液が流れてひび割れた床からこの宇宙へと漏れ出て落下している。太陽光を浴びて色を染め流出している、液体も肉体も心や魂でさえ滴り落ちている。この気球はまだ完全な形を保って飛行していようとも、もはや新たに生み出された小さな乗組員でさえこの宙に投げ捨てられようとしている。この廃棄は高貴な太陽なる神の意志によって生じているのではない。この宇宙における一つの出来事である。果たしてこの飛行船は太陽にたどりつくことができるのだろうか、甚だ疑問であっても、そう代わり映えはしないし問題にもならない。太陽の内に落下してもこの宙で分解したとしてもそれ程変わりはないのである。太陽は飛行船を欲しがりはしないし、また飛行船も太陽に飲み込まれることを望んでいない。この太陽と熱気球なる飛行船の位置関係は絶対的には捕えられない相対的な関係にある。いずれもが望んでいなければ善悪の因果律だけで論じられるべきではなくて、推力はなくとも飛行船の意志の力も加えて考慮しなければならいない。このため熱気球が飛行船として太陽の内に落下すると断言することには無理がある。

詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。