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【散文】運命や恋など知らない。

私は派遣社員で働く事務員だった。
人間関係で面倒になってきたら転職をする、を繰り返している。
なので、親しい人もいない。
何度目かわからなくなった転職先で知り合ったのが今の夫である。年齢は10歳年上であった。
一応、指輪はしている。そうすることで「結婚しているのですか」という質問を受けずに済むからだった。
実は一度、指輪をなくしてしまったことがあったけれど職場の人全員が探してくれたことがあった。そのときは内心「どうでもいいのにな」と考えていたのだけど、必死に探すフリをしていた。そうしなければおかしい人と思われそうだったからだ。
結局、指輪はトイレの床に落ちていた。手を洗うときにいつもは外さないのにこのときは外してしまったようだ。覚えていなかった。恥ずかしくなって、もちろんほどなくして、その職場も退職した。

夫と出会ったのは35歳だった。夫は45歳。子供をつくるか相談をせずに結婚をし、毎日ひどく疲れていたので子供をつくる行為も結婚当初からなかった。運命や恋を知らないまま、私は死んでいくのだろう。
ふと帰宅するときに夕日を眺めているとそう感じる。それが不満だといこともない。
私は家族以外、他人と暮らすなんて想像すらできなかった。けれど夫とは出会ったときから何故か違和感がなかった。それを運命だという人もいるだろう。遺伝子上相性がいいと体臭も気にならないとか。
夫はたまに加齢臭がするので、それはないだろうと思うのだけど、この夫なら気を使わずに生活することができると未来まで想像できた。

独身の職場の人からは結婚していることを羨ましがられた。私は独身であることが羨ましいと思う。独身であることは希望がある。独身のときは結婚さえしたら焦燥感が消えると考えていたのに、いざ結婚してみるとそんなことはなかった。子供がいないことを指摘されることもあったし、夫と仲がいいのかと勘ぐられることも嫌だった。自分の話をすることが嫌だった。
不満はないーーけれど、幸せでもない。それが今の私だった。

「麻生さん、タイピング早いですね。データもいつも正確ですしさすがです」
「あなたより長く事務をしているだけですよ」
「そんなことないですよ。僕なんか何年たってもミスばっかりです」
後輩の鮫島くんだ。なぜか私によく声をかけてくれる。というより、誰にでも親しい。私には眩しく対極的な存在だった。
今の職場には2年ほど在籍している。彼は去年から入った社員だった。同じ部署であったので派遣であっても仕事を教えることが多かった。私は派遣のかねあいで三年周期くらいに転職をしている。あと1年で彼に教えられることは教えておきたいと何となく思っていた。

鮫島くんは家が貧乏であったことからよく貧乏ネタで職場を沸かせていた。家族でモヤシ鍋を食べていた話や、たまの贅沢がマックだったりしたこと、モスバーガーなんて、フランス料理ですかと笑っていた。私も思わず笑ってしまう。鮫島くんが目があうと、「麻生さんも笑って酷いですよ!」と会話に混ぜてくれるのだった。
鮫島くんは私をよく気にかけた。孤立気味だったからだろうか。しかし、そうでないことがはっきりしたことがあった。
たまたま、帰りが一緒になったことがあった。
電車通勤で、同じ方向であったために何となく話しながらホームで立っていると鮫島くんが言った。
「いきなり、失礼ですいません。麻生さんってなぜか会ったときに衝撃が走ったんですよ。ここだけの話ですが、僕は麻生さんが結婚してなかったら攻めていたところでした」
「……ああ、そうですか」
我ながら失礼な返答である。鮫島くんは気を悪くした風でもない。
「浮気のニュースとかあるじゃないですか。僕は絶対しないだろうなって漠然と思っていたんですけど麻生さんと会ってから気持ちがわかってしまうんですよね。ああ、そうだよな。好きだったら止められないよなって」
「私はわかりません」
「あ、浮気をしようって話じゃないです。わかっています、そうすべきではないし、僕も誘っているわけではないんです。ただ、言いたくて仕方なかっただけです……運命の恋ってあるんだなって」
「……私はなんと答えたらいいでしょうか」
アナウンスが入り、黄色い線より後ろへお下がりくださいとホーム内に響いた。風が髪をなびかせる。
「すいません、忘れてください。僕は別の車両に乗ります。明日から無視とかなしでお願いしますね!」
車両が来て、宣言どおり彼は別の車両に乗って去ってしまった。
私もひとり席に腰掛ける。
今の職場はまあまあ居心地よかったのだけど、転職活動をはじめなければならない。

うちの家では帰宅後に挨拶はしない。夫も何も言わないからだ。冷めているわけではない。最初から熱などなかった。
合理的であったから結婚をした。日本という国は納税の観点からも夫婦であることの方が得であったし推奨されているからだ。
夫に告白をされたので、結婚をした。この人なら結婚をしてもストレスを感じない。夫のためでもなく自分のために結婚をした。
なんとなく寝るまでの間にワインを飲んでテレビをみて、自分の時間を過ごして眠るまでの時間を過ごす。
仕事でも何もなかった。あったのは鮫島くんとのことだけ。でもそれは転職をすれば関係なくなる。だから些細なことなのに。

「ねえ、今日は一緒に眠る?」
夫がテレビの画面から目を離さずにCMのときに言ってきた。どうして今日に限ってそんなことを言うのだろう。声に出していないのに夫は続けた。
「なんだか、今日の君はいつもよりかわいい」

ああ。よく恋をすると綺麗になるとかそういうものか。だったら当たっているのかもしれない。私はいつもは何も感じないのに夫と結婚したことを後悔してイライラしている。イライラする原因が鮫島くんとのことだって事実がわかっているのが更に苛つきを倍増させる。
私はなんて人間だ。感情がないわけではない。夫と契約をした時点で私は不義理をしてはいけないのに。

恋とか運命とか知らないままが良かった。そのまま死ぬ方がきっと後悔もなにもないまま穏やかだっただろう。中毒性があるし、現状に我慢ならなくなってしまう。
私は夫に今日も疲れているからと謝った。夫はすぐに引き下がってくれる。とても優しい人だった。私に対して一切不満を漏らしたことはない。
けれど、それが返って夫とは「ただ一緒に暮らしているだけ」になっているのだ。夫婦であることに何の意味もない。
ましてや子供もいない私たちに経済的理由以外に何も残らない。夫はひとりでも生きていけるので、私だけがその理由で結婚したに過ぎない。
そのことに気づかせてくれた鮫島くんに感謝はしない。
それどころか多少、怒りすら覚える。
明日、彼にはっきり言おう。迷惑だったと。私はあなたのせいで転職するし、夫とも嫌な雰囲気になってしまったと。逆恨みかもしれない感情を抱いたと。でも、嫌いになれない自分がいること、それ自体が更に自己嫌悪に陥ってしまったということ。

――そして、運命や恋なんて知らない方が幸せなこともあるのだ、と。


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