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「古畑任三郎」はサーカス。

 ぼくは、ドラマを見ない。最後まで見たものは本当に数えるほどしかない。なぜ見ないかと聞かれると答えに困る。特別嫌いな理由が見当たらないのだ。ちゃんと全部見た記憶があるのは、ランチの女王、アンティーク、オレンジデイズ、くらいだろうか。

 この世界にはぼくの知らない面白いことが、熱狂できることがどこかに隠れていて、それをとても楽しんでいる人たちがいるような気がしてならない。羨ましい。ぼくは退屈ならそれを見つけに行かなければならない気がするし、今目に入るすべてのものに偏見なくフラットに出会っていきたいと思っている。最初から「こうだろうな」とか決めつけてつまらない人生にしていきたくない。フラットに出会った上で、つまらないならしょうがない、面白いなら喜ぶ。それだけだといつも思う。そう思うとドラマの世界にはまだまだ知らないことがたくさんあって、熱狂できる作品があるのだと思うとワクワクする。でもなぜかドラマに対しては探しにいく気にはならない。不意な出会いに期待している。待ってしまっているのだ。それはドラマはテレビでというイメージがゆえに、待つものという先入観あるのだろうか。それに、心は勝手に動くものだ、動かしにいく必要はない、と思うからだろうか。偏見なくと思っても、それが一番難しいのも理解している。


そして、今熱狂しているドラマがある。「古畑任三郎」だ。


面白い。

面白いぞお。古畑任三郎を見ていると、田村正和さんが演じていることを忘れてしまう。本当に古畑任三郎という人がいて、その生活を見せてもらっているような気になってくる。とんでもない魅力だ。そしてそのキャラクター性はとても痛快であり、愉快だ。曲者であり、人情に溢れ、優しさに満ちたキツさを含んでいる。愛すべき人そのものだ。魅力的な人とはどういう人か、ただ優しいだけではない、その真髄を体現しているかのようだ。かっけえ。毎話事件に出会っていく古畑と今泉、そして西園寺、その事件はいつも複雑な謎に包まれ、意外な角度から解決に向かっていく。僕らは適度にヒントを与えられ、ワクワクする権利だけをピンスポットの古畑から渡される。前のめりにぼくは受け取るだろう。そしてすべては最後、古畑の軽快な喋りによって解きほぐされていく。そこに「そうはならんだろう」という疑念が湧いたことは一度もない。古畑は信頼に足る人物だ。いや、三谷幸喜さんがそうなのだが。そしてそれらのすべてを聞いたぼくは、爽快な観終わりを得て、満たされる。いいドラマだ。素晴らしいドラマだ。最高だね。サーカスだ。

こんな作品とちゃんと出会えたこと、嬉しく思っている。こんな出会いがドラマの世界、いやこの世界にはたくさん眠っていると思うととてもワクワクするね。知らないことがある限り、ずっとワクワクしていたい。



読んでくれて、ありがとう。


また。


とまお

いただけた時には、本買います。本を。