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「美術館」は目印。

 

 ぼくは「自分」というものがよく分からなくなってしまうことがある。昨日までここにいたような気がするのに、突然迷子になってしまうのだ。あいつめ。

小学生の頃か中学生の頃、自分はどんな人?という質問の紙が配られて困った記憶がある。自分って言われてもなあって思った。

だが、「自分って言われてもなあ。と反応をしてしまう人」というのが逆説的に本当の自分であると思う。たとえ上手に答えられたとしても、ぼくの場合きっと、そういたいと望む自分の姿を口にしてしまうと思う。そんな気がする。そして上手に答えるなら、「偏見なくフラットな人」と答えたい。

普段「これを言われた時には、これが自分の反応だな!」とは確認してないし、毎回していたら大変だ。だからこそ、自分を知る機会は減って、迷子になりがちだ。迷子になってから気づく。あれ?あいつどこ行った!!って。


そこで好きな場所がある。「美術館」だ。あいつも好きだ。


正直、美術館に行く時、観る美術はなんでも構わない。もちろんその中で好きな作家は生まれてくるし、それはその人の絵を観に行くという別の目的として分離される。好きな作家目的でなく、美術館に行く一番の理由は、自分の正直な感想が心で聞こえるからだ。絵を観てぼくは思う。「超好きだなあ」とか、「つまらないな、いや、視点が足りなくてまだわからないってことかも」とか、「ここの色いいな」とか、「絵上手いな、でも上手い絵が観たいんじゃないんだよな」とか、「わけわかんないけどなんか貫かれるな、すごいな」とか、スーパー自分勝手だ。あいつめ。でもそれは何より正直な感想だ。そしてその時自分自身と喋っている。その時ほど明確に自分の存在を確かめられることはないし、どれだけたくさんのことを思っているか気づける。そうして、あいつとちゃんと出会える機会は貴重だし、何より絵には力がある。自分とかの枠を超えてただ感動に包まれて、言葉にもできないまま、絵に取り込まれるような気分になることすらある。だから一石二鳥だ。素晴らしい作品はどこまでも新しい世界をくれるし、あらゆる作品が自分の存在を教えてくれる。だからぼくは美術館が好きだ。自分というものを何度も確認できるから好きだ。迷子になったあいつに会えるってこと。自分勝手な理由で申し訳ない!だが、美術館が好きだし、全ての作品に丁寧に偏見なくフラットに出会っていきたいと真摯に思っているから許してほしいと心の中で思っている。



読んでくれて、ありがとう。



また。




とまお

いただけた時には、本買います。本を。