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[暮らしっ句]沈丁花[鑑賞]

 通りがかりに出会ったという句を、まず二つ

 通り抜け ならぬを承知 沈丁花  小西龍馬

 沈丁花 一人遅れて行く道に  星野早苗

 上の句は、わかりやすいですね。そこの数軒の家の人たちしか使わない私道。普通なら入ることがためらわれる空間、でもそこにあった沈丁花のそばに近づきたくて、敢えて侵入……。

 それに対して、下の句は同じように通りがかりの出会いを詠んでいるようですが、これがなかなか重層的。
 一見すると、「あら、こんなところに」という発見の句のようです。
 しかし、上の句と並べると違いが感じられます。上の句は比較的遠くから沈丁花を「発見」して接近を図っています。それに比べると、下の句はいかにも鈍い。おそらく目に入った時には別段、何とも思わなかったけれども、近づいて香りを感じた瞬間に、ハッとしたということではないかと思います。そしてその「時間差」が「遅れて」に重なっている。

「遅れ」るというのは何か事情があって「遅れ」るわけで、そういう時にこそ固有の現実がのぞく。いつもと違う時間、普通ではないジブン。
 でも、それを「遅れ」ると評価したとたんに、十把一絡げに欠点とされる。固有の事情は無視されて、失敗や迷惑行為にされる。自分自身でもそう思ってしまう。
 作者がどうして「遅れ」たのかはわかりません。足が少し不自由なのかもしれませんし、単に出かけるのに手間取っただけかもしれない。後者の場合にも不可抗力があったかもしれませんし、発達障害のようなハンデによるものかもしれない。
 でも、近代社会はそれを許さない社会。ともかく時間厳守。標準的な活動を強いるわけです。それが仕事だけの問題ならまだしも、私生活でも規格外の者はバッシングされがち。当事者自身が自己否定、自己嫌悪に苦しむところまで追い込まれる。
 作者がそんな理屈っぽいことを考えていたとは云いませんが、無意識にせよ、それに近い感覚があったとすれば、「沈丁花はいいわね」、「香りはいいわね」という響きが混じってくるわけです。そんな響きが聞こえてきませんか? 少し遅れて……
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 去る人の 良きことばかり 沈丁花  山荘慶子

 沈丁や 在りし日に触れ 悔み状  原田町子

 この二句にも「時間差」があります。
「光(景)」に比べれば「香」は常に過去なんです。実験すればわかります。花を取り去っても香りは残る。花を置いた瞬間には香りはまだ広がっていないということです。
 むろん、ふだんはそんなことを思いもしませんが、それが「別れ」に重なった。「良」き人はもうここにはいない。今あるのは思い出だけ。「思い出」は、まさに「香」。

「季語」って、そもそも呪文的だと思うんですが、「沈丁花」は中でもあやしい気がしました。この「沈」は、心が落ち込むのではなくて、意識の底に降りていく感じ。無意識がのぞけてくる感じでしょうか。

 実はこの後、結構、長く書いたんですが、それはわたしの個人的無意識で、たぶん共有すべきものではないと気づいて割愛しました。

 沈丁花が香ってきたら、少し降りてみませんか? 思いの底に……

 出典 俳誌のサロン 歳時記 沈丁花


※画像は、Angie-BXLさんの作品です。
 ありがとうございます。


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