見出し画像

第70話 友人の話-猫の恩返し

「動物に助けられたこともあるで」

ヒガシノくんは獣医師をしている。
現在は住宅街に医院を構えているが、駆け出しのころは勤務医として辛い経験も積んだ。

「助けられたときは嬉しいんやけど、そうでないこともあるやろ。ときには殺さなあかんことも」

獣医師は、いわゆる安楽死や殺処分を頼まれることがある。
病気やひどいケガで助からない命なら、苦痛を取り除くため、と割り切れるが、そうでないときは辛い。

駆け出しのころは特に、割り切ることができず、人知れず苦しんだ。

「最初に勤務した動物病院が、簡単に殺すとこでな」

大学を卒業して、初めてのひとり暮らしでもあった。
落ち込んだ気持ちが、呼び寄せるのだろうか。
アパートの部屋ではしばしば、怪奇現象が起きた。

「最初は夜中に食器棚がカタカタいうくらいやったけど」

地震だと思ったが、テレビをつけても速報は入らない。
アパートの前を大きな車が通ったわけでもない。

そのうちに、人の足音や衣擦れの音を聞くようになった。
リビングの灯りは勝手に消えるし、廊下や洗面所でたびたび人影を見かけるし。

「なんかおるな、とは思うたんやけど……」
とにかく忙しいのと、ストレスのせいで、対処しようという積極的な意志が湧いてこない。

あるとき、駅で電車を待っていると、見知らぬおばさんに声をかけられた。

「ニイチャン、ようないもんが憑いてるわ。はよ、なんとかせんと、えらいことになるで」

そのころには、夜、布団に入ると、なにかが部屋の中を我が物顔に闊歩している気配があった。
引っ越したいが、仕事は忙しいし、お金もない。
ひたすら目をつぶって耐える日々だった。

「ほいでな、あの猫に出会うてん」

小学校の近辺で暴れているのを捕獲された野良猫だった。
ちょっかいを出した子どもが噛まれたため、警察や消防までが出動する大捕物になった。

捕り物の最中、誰かがひどく殴ったのだろう。
ヒガシノくんが見たときには、後ろ脚が折れていた。

猫入りのケージを持参したのは、2人組の制服警官だった。
両人とも、顔や腕にひどいケガを負っていた。

「ごっつい黒猫やった」

人の姿を見ると猛獣のようにうなる。
近づくものには、誰彼かまわず噛みつこうとする。

そのまま殺処分するのかと思いきや、警官はとりあえず骨折を治せという。

愛護団体にも連絡が行っていたらしく、「引き取り手がない」という結論が出るまで、おいそれとは殺せないらしい。

ややこしい動物は新人の担当だ。
治療を押しつけられたヒガシノくんは、添え木を当てた猫を自宅に連れ帰った。

「なんや可哀想やったから」

もとが野良猫だけに、人にも動物にも全く馴染まない。
自分の家なら、他に誰もいないので、それほどストレスを感じないでいられるのでは、と思ったのだ。

殺処分されるにしても、それまではなるべく快適に過ごさせてやりたい。

幸い、麻酔のせいもあり、ヒガシノくんの部屋に連れてこられた猫は、ケージの中でふてぶてしく眠るばかりだった。
カポネ……ヒガシノくんは猫をそう名付けた。

深夜になって、そのカポネがムクリと起きだした。

「気配に反応しおってん」

誰もいない洗面所のドアがパタリと閉まり、廊下の灯りが勝手に点滅する。

もはや珍しくもない現象だ。
それでも怖い。
ヒガシノくんは震えるばかりだったが、ケージの中でカポネがうなった。

寝室のドアがスゥッと開く。
その瞬間、カポネは跳ね上がり、ケージの蓋に頭をぶち当てた。

脚が折れていることなど、全くおかまいなし。
全力のタックルを受けて、ケージの蓋がはじけ飛んだ。

「黒い弾丸みたいやった」

ドアの隙間めがけて、猫が突進した。
一拍遅れて、悲鳴が聞こえた。

「声やないねん。頭の中だけで聞こえる絶叫というか」

猫の声ではない。
部屋にいた「なにか」が猫に襲われ、悲鳴を上げている。

次の瞬間、部屋中の窓という窓がガガガっと開いた。
カーテンを翻して風が抜け、悲鳴がやんだ。

「カポネ……」
我に返ったヒガシノくんが見に行くと、猫は廊下でうずくまっていた。

無茶をしたせいだろう。
「骨が皮膚を突き破って、血まみれやった」

翌日、出勤したヒガシノくんは、院長に謝罪した。
家に連れ帰った猫が、ケージから逃げてしまった、と伝えたのだ。

ヒガシノくんの家には今も、脚を少し引きずる猫がいる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?