P・オースター『ガラスの街』の可読性と限界/名前と正体

この論考は「名前と正体」モデルの構築と、ポール・オースターの小説『ガラスの街』の読解を並行して行う。
論考が行うのは証明ではなく、あくまでモデルの提示である。
注釈は半角で丸括弧の中に数字を打ったものを文中に挿入し、各セクションの末尾に書いておいた。重要な注記が多いのでぜひ読み飛ばさずに進んでいただきたい。

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§1 名前と名指すもの

名示対象とは名のもとに明示される対象のことである。内的な名示対象(ex.性格)は名を呼ぶ前から存在する。しかし、外的な名示対象(ex.実在)は「名のもとに」存在し(*1.)、その中身は名指す名前の外においては不明のままである。また、名示対象は別の名でその中身を指示することができる。外的な明示対象の中身を「正体」と呼ぶ。このことから、対象を別の名で呼びうるということは、正体が伴うということである。また、内的な名示対象も別の名で名指しうるものである以上「正体」と呼ぶ。
内的名示対象においては名に先行して、外的名示対象においては名とともに、名示対象の正体が存在する。こうした二種類の正体の性質の違いを、「名前以前性」がある/ないと表現する。名示(名前)に先行して正体がある場合には名前以前性がある。名示に先行して正体がない場合には名前以前性がない。
正体とは端的に言えば外部世界である。我々にとっての世界とは現象するもののすべてのことであって、それ以上については(物自体については)推察の域を出ない。我々が我々である限りは、我々は超越論的主観性としての主体の内に(認識の限界内に)とどまるのである。
しかし我々は実際に正体について、外部世界について語る。
ただ、我々は自然的態度において外部世界について語りはするが、真実その正体について知っているとは言い難い。少なくとも主体にとって正体はその認識能力の点から制限されたものである。ではなぜ僕らは自然的態度で正体について語りうるのか。

この問に直接答えることはできないが、こうしたモデルが実際にそのテクストから読み起こすことのできる小説(『ガラスの街』)を読解することで、この「名前と正体」モデルが実際にどういったことを指示するのかを明かしていこうと思う。そしてまた、この試みが成立するとするならば、人はそこかしこに同様のモデルを見出すだろう。

私が以下で主張し再三提示するのは①名前には正体が伴うということ②名前のついたものには名前に先行して正体があるものと、名前に先行して正体がないものがあるということ、基本的にはこのたった2つである。
次のセクションにおいてモデルの提示はほとんど果たされ、以降『ガラスの街』に根ざした発展的な考察が続くこととなる。ぜひ楽しんでほしい。
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*1. 名のもとに対象が存在するとき、対象には名前以前性(名前に先行して正体が存在するという性質)があるのかどうかが多くの場合問題となる。この論考ではクインの名となる前の「ポール・オースター」は名前以前性がなく、クインの名となった後の「ポール・オースター」は名前以前性があると考える。つまり、厳密な意味ではこの論考において「ポール・オースター」が明示するのは文脈に依存して2種類の対象(名前以前性がないものとあるもの)に分けられる。

§2 数多の名前を持つということ、『ガラスの街』読解の始まり

仮に科学的客観的な世界が実在し、科学的方法によって正体に限りなく接近することができるとしよう。あるいは我々の自然言語を用いた活動において限りなく正確に正体について語ることができるとしよう。そうした「正体についてのより正確な明示」は、クインにとって可能なことであった。ポール・オースターの小説『ガラスの街』において、主人公クインは間違い電話を通じて、私立探偵の「ポール・オースター」なる名前と対峙する。その名前が名示する正体は何であるのかこの時点のクインにはわからないが、例えば電話帳でポール・オースターを調べてその正体に接近することは可能であった。にもかかわらず、クインは「ポール・オースター」を間違い電話の相手が言うとおりに私立探偵なのだと理解した。いまだ日常を生きていたクインにとっては「ポール・オースター」が本当は何であるのかというのは問題ではなかった。そしてクインは大胆にも3度目の間違い電話で「私がオースターです」と自ら「ポール・オースター」を名乗る。クインは以降、「ポール・オースター」の名を語って探偵をすることで、クインの名では提示されることのなかった探偵的な、また正義感のある(クインの)正体を「ポール・オースター」の名のもとに提示することとなる。クインと間違い電話の相手であるピーター・スティルマン(あるいはスティルマン夫妻)にとっての名示対象「ポール・オースター」は、この時点で正体を伴って現に存在するものとなった。そしてこの「ポール・オースター」とはクインにとっては自分自身、スティルマン夫妻にとってはクインを明示しており、クインが「ポール・オースター」を名乗る以前の「ポール・オースター」とこれは存在論的に違うものである。(なぜなら名指している正体が違うから。)そしてまた、クインが名乗るところの「ポール・オースター」には名前に先行する正体(名前以前性)がある(*2.)。
この、名指される正体としてクインを持たない(名前以前性のない)「ポール・オースター」という名はクインに「ポール・オースター」と名乗らせ、彼を事件へ、数奇な結末へと導いていく。その詳細をここで語ることはしないが、存在しないもの(名前以前性のない名)が差し込まれたことで、クインに「魔(間)が差した」のが『ガラスの街』の大きな契機だとだけ述べておく。

『ガラスの街』はこうした出来事を含めた3つの契機によって成り立っている小説である。そしてこれら3つの契機は、名前と正体の2者関係にまつわる様々な物語である。
1つ目は【主人公クインが「ポール・オースター」の名を語って(事実上)私立探偵となったこと、そしてその事によって一連の事件に巻き込まれ数奇な結末を迎えること/クインが「ポール・オースター」の名のもとに自らの正体のある部分=探偵的あるいは正義感のある部分を提示すること、そして「名前以前性のない名」によってクインに魔が差すこと】である。
2つ目は【間違い電話の相手であるピーター・スティルマンの父(ピーター・スティルマンを殺そうとしていると思われている)であるスティルマン博士が、一つの名のもとに一つの正体が提示される「バベル以前の世界」を現代に復活させるために、様々な「壊れたもの」に個別の名前を与えるというエピソード/そしてしかも、それは自閉的な方法を取ることになるような、最終的には自殺へと至る虚しい目論見】である。
3つ目は【作中人物の作家ポール・オースターが登場し、ピーター・スティルマンが語っていた「ポール・オースター」は存在しなかったと判明すること、そして作家ポール・オースターが語る『ドン・キホーテ』論あるいは『ドン・キホーテ』の特性/名前以前性のない「ポール・オースター」が名前以前の正体を持たないことがこの時点で判明する】である。
3つ目の契機は1つ目の契機と通底する部分と、この物語そのものの形式を示す図式としての『ドン・キホーテ』の提示を含んでいる。
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*2. どうして名前に先行して正体があると考えるのか(どうして名前以前性があると考えるのか)ということについて説明しておく。これはあるものが別の名前でも呼ばれうるということを示すためである。言い換えると「名前と正体」モデルにおいては、あるものが数多の名前を持つ以上その各々の名前に先行して正体があるということだ。
クインは作中、「ウィリアム・ウィルソン」や「マックス・ワーク」の名のもとにミステリー小説家として、また架空の私立探偵として生活している。これはクインが多重人格者のような正体の重複した(あるいは正体の領野が区分され並列した)存在であるということを示しているわけではない(オンラインゲームでハンドルネームを使う人物やあだ名のある人物は多重人格者ではない)。
しかし、名前以前性に対して言語以前性はその存在を語るのが難しい。相関主義者が祖先以前性を語れないのとこれはよく似ている(同一の問題であると判断することもできると私は思う)。しかしこれについてはここで論じることはしない。

§3 数多の名前を持つということ、名前の神学への自閉

スティルマン博士はピーター・スティルマンの父親で、神学者か言葉(名前)の哲学者か狂人である。彼が若かりし頃刊行した論文によれば、バベルの塔崩壊以前とバベルの塔崩壊後では人間と言葉の関係は変わってしまった。彼の語るところによれば、今まではものに対する名が一致していたが、人類の堕落に伴ってものは崩壊するようになり、「壊れたもの」にはそれに伴う名前がない状態になってしまった。そのために、人間がいくらその名を呼ぼうとも対象を汲み切ることはできないのだという。スティルマン博士はそれを解決するために例えば『傘』が壊れて『壊れた傘』になったときにそれを直接名指す名前を作っているのだという。「壊れたもの」を直接名指す名前があれば、人間はものの正体を汲み尽くし、堕落以前、バベル以前の人間のように、ものを従えることができるようになる。博士はそう考えた。

「それ以上に、彼は言語の哲学者です。『私が言葉を使うときは―とハンプティ・ダンプティは、いささか蔑むような口調で言いました―私がそれに持たせたい通りの意味を言葉は持つのであって、それ以上でもそれ以下でもないのだ。問題は―とアリスが言いました―言葉にそんなにたくさん意味をもたせることができるかどうかってことよね。問題は―とハンプティ・ダンプティは言いました―どっちが主人かってこと、それだけさ』」

しかし、スティルマン博士の理想は、単に各個人が言葉において自閉的になることを志向しているに過ぎない。あるものが数多の名前を持つということが、ものの独立、ものの正体の可能性を示しているのなら、ものはその名前の数に従ってその都度その正体を提示するはずである。名前の多さは、いかにものの正体を汲み尽くすことができないか、つまり反転すれば、いかにその都度の名前に応じて同じ一つのものは多様な正体を提示するか、ということを示している。それに対して、1つのものに1つの名前を当てるべきだとする理念は、1つの名前に「そんなにたくさん意味をもたせる」ことになるか、あるいは1つの名前に1つの正体しか認めないという理念のどちらかになるはずで、先程の引用箇所から分かる通りスティルマン博士の企図することは後者であり、そのためには、ものの多様な正体と対峙するという体験の可能性をきっぱり切り捨てて自閉する必要がある。
これは確かに、理屈としては成り立つ話だろう。僕らが認識主観として知りうるのは名示対象の現象だけであって、その名と正体については我々の手である一意的なものしか認めないことにすることは理論上できるし、個人のレベルでは実践できることである。

しかし、それがどれだけ人間にとって孤独なことなのかをスティルマン博士はわかっていただろうか。作中、スティルマン博士は自殺したことがあとになって知らされる。彼が死んだのは、そうした意図的な言語的自閉がもたらした孤独のためだったのだろう。彼の話しぶりからしても分かる通り、彼は全く言語的に自閉しておらず、クインと対話することができる。それは理念という形でカムフラージュされていたが、彼がやりたかったのは人間というものが持つある側面、言葉に関して自閉的になりうるという側面を人々に明示することだったのだろう。そうした理念のための意図的な自閉のために、スティルマンは公的には「狂人」となってしまった。これは本物の狂人となってしまったピーター・スティルマンとは対象的である。彼には全く死ぬつもりはないし、「闇の中で」彼は言語的に自閉し「神の言語」を話す。ピーター・スティルマンはスティルマン博士の目論見通りに(?)自閉した「神の言語」を話すようになったが、皮肉なことに彼は実生活上で様々な苦悩を抱えている。自閉した言葉が話せるからと言って、人間が救済されるとはそう簡単に言えないのだ。

§4 「ポール・オースター」

スティルマン博士と別れたクインは「ポール・オースター」を探してアパートメントのブザーを鳴らした。電話帳にある限りこの町で唯一の「ポール・オースター」の家である。ドアを開けて出てきたのはポール・オースターだった、しかしそれは私立探偵「ポール・オースター」ではなく、作家ポール・オースターだった。
あらかじめ第3の契機としてあげておいたこの事件は、第1契機と第4契機に関連している面が大きい。つまり、クインが語る以前の「ポール・オースター」がいかなる存在かという問いが第3契機と第1契機を貫いており、その名前以前性のない「ポール・オースター」の存在様式は『ガラスの街』そのものの存在様式と関連している。このセクションでは第1契機と通底する問題を取り扱い、『ガラスの街』との連関は次のセクションに回す。その際、このセクションから次のセクションへの橋渡しとして『ドン・キホーテ』について触れることとなる。

ピーター・スティルマンが語ったクイン以前の「ポール・オースター」は存在したのか、あるいは存在しなかった場合に彼らが語っていたのは何だったと言えるのか、また存在した場合に出会わずに語られた「ポール・オースター」とは一体何だったのか。
クイン以前の「ポール・オースター」とは何かを知るには、まず元来想定されていた私立探偵「ポール・オースター」なる人物が本当に存在した場合としなかった場合について考えねばならない。現に「ポール・オースター」の名前だけは存在するわけで、これにはいかなる正体がつきまとうのかというのが問題になる。私は最初のセクションから一貫して「名前には正体が伴う」と主張してきたし、実際そのモデルは『ガラスの街』内部でもよく働いている。この件は「名前と正体」モデルの反例となるだろうか。

まず、作中でクインが推察したとおりに私立探偵「ポール・オースター」が実際に存在した場合を考える。その場合、クインを名指す前の「ポール・オースター」は(おそらくはもう引退してしまった)私立探偵ポール・オースターを指示することとなる。これは我々が日常生活において、実際にあったことのない人物に対して言及する際に起こることである。この場合には名前は実在する人物を正体として指示している。

つぎに、「ポール・オースター」が実在しなかった場合を考える。それはつまり、「ポール・オースター」を語ったスティルマン夫妻かあるいはスティルマン夫妻に語った人物が、存在しないものの名前を呼んだ場合である。これを考えるには、「ポール・オースター」には別の名前があるのかを考えればいい。私は2つ目と3つ目のセクションで正体があるものには数多の名前が伴う、つまり別の名前でも呼ばれる=正体がある、ということを示した。これは最初のセクションで述べておいたとおりである。そこで、「ポール・オースター」に別の名前が伴う場合にはそれは正体を持つということになる。結論から言えばクインを指示しない「ポール・オースター」は正体を持つ。なぜなら、我々はそれを「人の名」であるとか「私立探偵」であるとか、その正体は汲みきれないにせよ呼ぶことができるからである。

このことに違和感を覚える人は少なからずいるだろう。先程の前提では「ポール・オースター」は存在せず、質量を持たないはずであるのに、どうしてそれに正体があるといえるのか。
我々はクインには正体があると考える。またそうしたことを前程して議論を進めてきた。彼は小説家で、ニューヨークの街を歩き、「ポール・オースター」を語って私立探偵として活躍する。しかしよく考えていただきたい、クインには質量はないし実在しない。我々は架空の人物の正体を、プロフィールを、小説中の数多の記述から語ることができる。
この例が受け入れられないというのなら、直接あったことのない芸能人や、歴史上の人物や、匿名の作家について我々は多くを語ることができることを思い出してほしい。

物の名前は一つでは済まないし、あらゆるものが別の名を持つということを人はよく知っている。だからこそ、私の主張はあらゆるものに正体を認め、あらゆるものを存在させてしまうと、人は非難するかもしれない。存在しないものがなくなってしまうではないか、と。
例えば「くぁwせdrftgyふじこlp」は存在するかどうか。おそらく人は存在しないと言うだろう。私もそのとおりだと考える。「くぁwせdrftgyふじこlp」と会うことは出来ないし、触れることもできない。しかし、「くぁwせdrftgyふじこlp」は「ネットスラング」とか「ふじこ」と言いかえられる以上、正体がある。そして正体がある以上はある意味で存在している。つまり、「くぁwせdrftgyふじこlp」が完全な意味で存在しないということは言えない。
この、「完全な意味で存在しない」とはどういうことか。完全な意味で存在しないものとは、別の名で呼ぶことの出来ないもの、正体を持たないもののことである。これはあらゆる(ある意味での、つまり名前を持つものとしての)存在者の反対語としてのものである。(これを「空」あるいは「無」として理解しようと試みる人を私は拒まない。)
完全に存在しないものは完全に存在しない。それ以外の存在しないものについては、私は形而上学的に定義づけしない。なぜなら「何かが存在する/しない」という名示は、「名前と正体」モデルにおいては、その正体を汲み切ることができないものと定義されるからである。

脱線が過ぎた。第3契機の『ドン・キホーテ』論について書いておこう。作家ポール・オースターはクインに、彼が今書いている『ドン・キホーテ』批評を語る。この論考において重要なのはこの『ドン・キホーテ』論の詳細ではなく、ポール・オースターの提示する『ドン・キホーテ』が嘘をつく本、最初に提示、宣言した形式を欺いている本であるということである。クインは冒頭、『東方見聞録』を読んでいるのだが、その直後に引用されるのは、この本が全く真実を書いたものであって読む人は無批判に聞いてくれてよい、という断り書きなのだ。その後に、クインはミステリー小説の条件をつらつらと論じている。以降多くの著者はそれに引きつられて『ガラスの街』を探偵小説、ミステリー小説として読むこととなる。しかし、これはミステリー小説ではない。予め提示されたすべてのお約束は放棄されることとなる。これらには同様の構図が見られる。その構図が、次のセクションで問題になる。

§5 抜き去られた目的地、宛名のない手紙、意味の氾濫

「丸い三角形」「ポール・オースター」「『ガラスの街』」には正体があるのか、つまり他の名前があるのか。一つ前のセクションに従うのならば、これらはすべて正体を持つ。「丸い三角形」は「矛盾命題」、「6より大きい5」と連想するように言い換えが可能であることによって、連想に通底するものとして正体が存在する。どうしてそう言えるのか。例えば「クインは何者であったか」と問うとき、「ポール・オースター」「ウィリアム・ウィルソン」「マックス・ワーク」の名とそれが示した彼の性格はこの問に答える足がかり、場合によっては答えになる。つまり、ものの正体と人が言うときに暗示しているのは「それが何であるか」という問いであり、その問いに耐えうるものはすべて「名」としての資格を持つのだ。

だとすると、『ガラスの街』とは一体何だったのだろうか。一度でも通して読んだことがある人ならこの問は切実なものである。何しろ、この小説はわからないことだらけで終わるのだ。そして何より、何のために書かれた小説なのか、つまり読者が何のために読むのかという目的地が『ガラスの街』では抜き去られている。
『ガラスの街』が何にせよその正体を背後に控えているのなら、我々はなんとかしてそれに接近することができてしかるべきである。しかし、そんなことは可能なのだろうか。
私は先程『ガラスの街』では目的地が抜き去られているといった。それはどういうことか。一つ前のセクションで出てきた『ドン・キホーテ』『東方見聞録』そして『ガラスの街』は、同様の構図を取る。すなわち、仮象。最初に宣言する「この本が何であるか」を欺いてそれとは反対のことを提示するという構図。これは宛名もなく手紙を書くことに等しい。手紙は誰かに当てて書くものだが、手紙と称しながらその当然性を無視して手紙を書く。そうやって書かれた手紙が、宛てられていない人たちに届くとどうなるのか。当然、読まれない。読まないはずなのだ。なぜなら、宛名は私ではないのだから。私に宛てられていない以上は得体の知れない手紙など読む義理がないのだし、そんなものを読んだところでどうしようもないのだ。しかし人は、宛名のない手紙を読む。それもお金と時間を払って。どうしてなのか。これはそのまま、フィクションを読む意味の問題へと接続している。ミステリー小説としての『ガラスの街』を読む意味は、あらゆるほのめかしを有意味にする原理を探偵とともに発見する(事件を解決する)こと。『東方見聞録』を読む意味は世界の事実を知ること。だが読者の目的は達成されない。『ガラスの街』はミステリー小説ではなく、『東方見聞録』は沢山の嘘や誇張を含んでいる。
そしてまた、本当はすべての小説が(本が)宛名のない手紙なのだ。明確に「この本が何であるか」を示して始まる本は少ないが、読者は多くの文脈から「この本は何の本か」を知って読み始める。もっといえば、何も知らないうちから「この本は何の本か」と決めつけて読み始める(先入見の導入)。そうでないと本は読めないからだ。(これは次のセクションで自己紹介不可能性として説明する。)どんな本を読むに際しても、読者は読者の読みたいように読むことを強いられている。手紙には宛名がないのだ。そして誰から送られてきたのかも、正直わからない。

『ガラスの街』は、しかし、正体を持つ対象である。小説から離れて、普通のものに対して宛名のなさ(つまり意味の氾濫)を適応してみると、次のようなことが見えてくる。言葉で汲み尽くせないものとして正体があるからこそ、対象は言葉と意味に還元されることなく存在し、常に読まれることができる。様々なものを、完全に名前に還元せずに「名前と正体」を持つものとして対峙することで、我々は言葉において自閉的になることも、対象が宛名を持たないことで意味の氾濫に飲まれてしまうこともなくなるだろう。
そしてこの考察を持ってして、『ガラスの街』の3つの契機は、つまりクインの「名前と正体」モデルと、スティルマン博士の「名前への自閉」と、ポール・オースターの「宛名のない手紙」モデルによる「意味の氾濫」として、互いに反駁しあい「名前と正体」モデルの通底によって収束し完結する。

§6 どうしてクインに魔が差したのか、自己紹介不可能性

これで『ガラスの街』については語り尽くしただろうか。そんなことはない。
なぜ第2のスティルマン博士が現れたのか、なぜクインは赤いノートを選んだのか、なぜクインは赤いノートを全裸で記すのか。わからないことはまだ山ほど残されている。
そして何より、この小説一番の謎は、なぜそもそもクインは「ポール・オースター」を名乗ったのか、である。こと動機に関しては知りようがない。例えば、想像をたくましくして、作家ポール・オースターが語る『ドン・キホーテ』論になぞらえて、『ガラスの街』はクイン自身が書かせたのだ、あるいはクインとクインの赤いノートを発見した作家ポール・オースターの友人は同一人物であるのだと考えることも出来なくはないだろう。しかし、そのように読むことはどう考えても胡散臭い。そもそもそれは飛躍のすぎる読みなのだ。あまり神経質に意味を読み取ろうとすると狂気に陥りかねない。見えるものすべてがメッセージだと思い始めたらおしまいだ。ナンセンスなもの、どうにも読めないものはこの世界にはあると諦めることも重要なのだ。

最後にひとつだけ、重要な話をしておこう。
クインに魔が差したのは、クインのせいではなく、むしろ間違い電話なる環境のせいである。
クインが、電話越しでピーター・スティルマンに自己紹介するためには、「ポール・オースター」ですと名乗るほかはなかったのだ。なぜなら、ピーター・スティルマンが知っているのはクインではなく「ポール・オースター」だけなのだから。
我々がふだん人間と交流するときには、話題となる何らかの対象について、交互に読者と作者となるのを繰りかえしている。我々が対象と対峙するのが読者か作者としてなのだということは、宛名のない手紙のやり取りはそこでも引きずっているということである。そうである以上、そこで自己紹介をするには相手側に私の正体か、さもなければそれに変わる先入見が必要となる。しかし、電話越しのクインは自分の正体にまつわる、相手のよくしっている名前を上げることはできないし、ピーター・スティルマンも冷静ではなく、そうした名前を受け入れることはできそうもなかった。そして、自己紹介可能な条件を満たすのは「ピーター・スティルマン」の名を語る場合だけであった。
問題は、本当にそれで自己紹介できたのかどうかである。

私が以前公開した、「『田園交響楽』でジッドは何を告白する」、「マルキ・ド・サドとは何者か」では、彼らの著作を告白に見立てて読解を進めた。私が『田園交響楽』やサドの著作を読み進めることができたのは、これが彼らの著作であって、小説というものは著者の内面の告白なのだという先入見に基づいていたからだ。先入見なしに対象を限界付けることは出来上ない。しかし我々は、普段からよく誤った先入見を持つ。アンドレ・ジッドは何も告白などしていなかったかもしれないし、マルキ・ド・サドもただ興奮するものを書き綴っていただけかもしれない。限界付けが誤る以上、そこで示されるべき正体も、本来のものとは違っているかもしれない。告白として見られた『田園交響楽』と、思い入れのないプロットとして見られた『田園交響楽』ではその背後に控えているものが、正体が、違ってしまっているかもしれない。我々はそれでも、同じ本を読んでいると言いうるだろうか。同じものと対峙しているのだと言ってもよいのだろうか。
僕らは2つ目のセクションで、我々は「自然言語を用いた活動において限りなく正確に正体について語ることができる」と仮定して議論を進めてきた。
だからこそ、クインは「ポール・オースター」を名乗ろうと、「ウィリアム・ウィルソン」だろうと「マックス・ワーク」だろうと、同じクインの異なる性格を提示するのだと考えてきた。これは確かに、無理のある条件のもとで語られていることかもしれない。私が読む『田園交響楽』はあなたが読む『田園交響楽』とは本質的に違うのかもしれない。
宛名のない手紙の亡霊は、最後までこうしてつきまとうことになる。
僕らは確かに、ものが名指される以上はそこに正体があると考えることができるし、そうである以上は「同じもの」について、同じクインについて、同じ『田園交響楽』について語ることができる。しかしだからといって、正体なるものが存在すると証明されたわけではないのだ。たまたま僕らは「名前と正体」モデルを共有して話すことができるために、同じ限界内で会話することができているに過ぎない。その背後ではいつも、そのモデルが破棄される可能性が潜んでいるし、そこには宛名のない手紙、意味の氾濫が、そして言葉への自閉が控えている。

この論考は、最初に宣言したとおり、モデルの提示であって証明ではない。今ならよくこの事の意味がわかるだろう。我々は今、同じこのテクストの限界内にとどまり話をすることができる。このテクスト自体がこのモデルに従って存在しているからだ。

そろそろ時間だ。今回は長く話しすぎた。
最後まで読んでくださった方々、ありがとうございました。

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【参考文献】
ポール・オースター『ガラスの街』、2013年、新潮社

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