見出し画像

昭和に生まれて昭和で育ったわたし

人生の曲がり角を迎えたわたしが、記憶があるうちにわたしの知っている昭和を書き留めようと思っています。良くも悪くもおもろい時代でした。

はじめに

わたしの生まれ育った家は、地方で、また裕福でもなかったので、かなり近代化から遅れていました。
家族は7人。父と母、祖父、祖母、兄、姉、そして私。
農家である我が家は、玄関を開けると、50センチぐらい高い上り口があり、そこに腰を下ろして靴を脱ぎ、上がります。部屋は襖と障子で区切られ、「おもて」とよばれる仏間には、仏壇と床の間があり、親せきなどが集まれば、そこが酒宴の場でした。

台所は土間にあり、かまどがあった場所にガスコンロが置かれ、ご飯はガス釜で炊いていました。水道はひかれていないので、近くの池からバケツでくみ上げ、土間の水入れに移します。食事はちゃぶ台と呼ぶには大きすぎる長方形の座卓。板の間に置かれていて、正座して食べるので足がすぐに痛くてなってしまいます。

トイレとお風呂は別棟。トイレは汲み取り、トイレットペーパーではなく、落とし紙と呼ばれる少しゴアとした感じの紙を使用します。お風呂は五右衛門風呂。これも池から水をバケツで何回も往復して窯に入れ、薪で炊きます。

藁ぶき屋根で、障子と襖で区切られた部屋は、冬はすきま風が寒く、夏は西日が差し込みよりいっそう暑さを感じられました。

今思えば、不便極まりない生活でしたが、その当時はそれがあたりまえでした。これから、こんな家で育ったわたしの昭和の思い出を綴っていきたいと思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?