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写真に文章は禁じ手か?・・写真の解釈と評価・・良い写真と文章との関係を考える。


パーソナルワークとしての写真の評価

この写真、おそらく他の人にとっては、ただの裁縫をする女性の写真ですが、私にとっては、とても想い深い写真です。自分の母の写真だからです。

裁縫をする母

このような写真は、「ファインアート写真の見方」:福川芳朗、(玄光社)によると、「パーソナルワーク」に分類され、その評価はそれを見る者の主観によって左右され、基準が定まらないものとなります。
私にとっては「良い写真」ですが、他人にとっては、ありきたりの普通の写真かもしれないし、あるいは、人によっては、自分の母親を思い出して共感してくれるかもしれません。

写真に文章をつけてみる

以下は、この写真とは関係なしに、母たちへの一文 「母の思い」と題し、母の日に寄せて「お母さん業界新聞」に寄稿したものです。
この文章を上記写真と同時に掲載したら、この写真はどのように見えるのでしょう。

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母たちへの一文
「母の思い」
私の母は、昭和元年、農家に生まれた。乳母もいるような大きな農家だったそうで、女学校にも通わせてもらったそうだ。戦後まもなく結婚、嫁いだ先も農家だった。が、訳あって父と家を出、母の実家に戻った。父母は、厩を改装して住まわせてもらったそうだ。私は、そこで産まれた。ミカン箱をテーブルにしてスタートであったが、私が物心ついた頃は既に小さな家を購入して住んでいた。ただ、裕福でないことは確かで、生活の足しにと、よく実家の農作業を手伝いに行っていた。
母が偉いのは、私たち子供に、貧しさを感じさせなかったことである。お金がないことは子供心にわかっていたが、不足は感じなかった。「わが家には財産がないから、勉強して身を立てろ」が口癖であった。だから私の名前は、「勉」。授業参観などは必ず来てくれた。その時は、必ず和服をきれいに着こなして来る。そういう母を私は大好きであった。
今でも思い出すのが、母に背負われ、肩越しに見ていた農作業。白い割烹着を和服の上に着て料理をする後ろ姿。請け負った和裁の夜なべ仕事。石けんの残り香。「お母さんのニオイ」は石けんのにおいだ。母にとって、子供はいくつになっても子供。私がひげをはやしたとき言った言葉。「あんまり偉くなるなよ」。母の子への思いは偉大である。そんな母ももういない。

母たちへの一文:お母さん業界新聞

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「母の愛情」が私の私的感情から離れ、一般概念として伝わったなら、文章を付加した意味があります。そうでなかったら、文章がまずいということになるのかもしれません。

★もし、よかったら、文章を読む前と後の感想をコメントでいただけると幸いです。

写真に文章は必要か

ところで、写真作品を作っているとき、文章をそれに付加するか、迷います。そこで、キュレーターの方や写真業界の方々に聞いてみると、文字は無しか、あっても必要最小限にすべき、ということが多いんですね。

写真のイメージだけで勝負しなければ、写真の意味がない、ということからすると、確かにそうだな、と思わざるを得ないのですが、いまひとつ腑に落ちないところがあります。

写真の可能性

写真は、画像(イメージ)であり、見る者はそこからさまざまな事を想起します。その想起の幅が大きいほど、見る者の解釈の余地を広げます。この幅が大きい写真を良い写真と評価する向きもあります:例えば、写真はわからない 撮る・読む・伝える――「体験的」写真論 (光文社新書)

写真の解釈を見る側に委ね、撮影者の意図とは別にその解釈を一人歩きさせるということも一つのやり方でしょう。

あの有名な、ロバート・キャパの「崩れ落ちる兵士」。最新の研究によれば、本当の撮影者はキャパではなく、一緒にいた恋人であり写真者でもあったゲルダ・タローであり、しかも、あの写真の兵士は、演習中に足を滑らして転んだだけで、撃たれてもいないし、死んでもいないとのこと。しかし、この写真は、「戦場で兵士が銃弾に撃たれて倒れた瞬間」として、フォトジャーナリズムの歴史を変えた傑作と評価されてきました。そして、「崩れ落ちる兵士」の真相についてキャパが語ることはなかったとのことです。

ここで、思うのは、たとえ真実とは異なっていたかもしれませんが、この写真の世間に与えた影響は計り知れなかったということです。写真の力を感じますね。

この写真に付加された「崩れ落ちる兵士」というタイトルは、確かに事実で、間違っていませんね。その事実から見る者は、戦場で撃たれて死んだ兵士を想起したのでしょう。
もし、この写真に、「演習中に足を滑らして転んだ兵士」というタイトルが付いていたらどうでしょう。ヘマな兵士と笑い者にされてしまうのでしょうか? いずれにせよ、全く違った評価となったかもしれませんね。

写真の限界

ロバート・キャパの「崩れ落ちる兵士」は、その真相はともかく、力のある写真であることは確かです。
多くの写真にそのような力が普遍的にあるのかというと話は別ですね。

世の中に、多くの写真集が出ていますが、写真だけを見て感動するという場面はそれほど多くありません。それは著名な写真家の写真であっても多々あります。私の見る目が無いのだ、と言われたら返す言葉はありませんが、自分の感性ですから仕方ありません。

世の中には、毎日毎日溢れるほどの写真がSNSに投稿されています。とても綺麗な写真も沢山あるし、技術的に優れた写真も沢山あります。それらが川の水のように流れていき、あっという間に過去のものとなっていきます。そんな中で、本当に心動かす写真にはなかなか会うことはできません。

そんな中、写真集を紹介するwebサイトなどを覗いてみることもあります。そこでは、写真集を紹介しつつ、すごい写真とか言うのですが、やはり、感動するときもあれば感動できない写真も多々あります。

文字は無しか、あっても必要最小限にすべき、ということを前提に、「写真集を読む」なんてことが言われます。そこでは読む側の力量が問われるのでしょうが、感動しないものは感動しないわけで、無理無理解説されても仕方ないと言わざるを得ないですね。
どうみても、「パーソナル」な写真でしかない写真家の家族写真を見せられ、評論家がその写真家の生きた様を語り、その時代背景から、その写真の意味を語ったりすることが多いのですが、それを知ったところで、感動を覚えないときはそれまででしかない。そして、そう語るのであれば、最初から文章で語って欲しいわけですね。父親や母親との関係、兄弟との関係、その写真を撮ったときの思い、などなど。

しかし、そういうことは、写真の世界では「禁じ手」と言われるらしいのです。

木村伊兵衛賞ノミネート2023の中で・・

渡部さとるさんの2Bチャンネル木村伊兵衛賞ノミネート2023によると、2023年にノミネートされた作品のうち、特に吉田亮人さんの写真集 The Absence of Twoでは、禁じ手である文章が付加されていることを紹介しています。この動画の31:30秒あたりからその紹介が始まります。

吉田さんの作品は、写真集ですが文章も入っています。それを渡部さんが賞賛しつつ、「禁じ手」だと言っています。ここでは、読めないので、The Absence of Twoにつき、文章とともに紹介している記事を紹介します。ここの第8回からがThe Absence of Twoの解説になっています。

ここでは、吉田さんの身内である「おばあちゃん」とおばあちゃんを介護する「甥」の大輝くんの写真が掲載されています。パーソナルワークに分類される写真なわけです。この写真集を見た人の多くが感動する、と紹介されています。写真を見る限りではあんなに甲斐甲斐しく、そして楽しそうにおばあちゃんの世話をしていた甥の大輝くん。しかし、ある日、バイクで出かけたまま帰ってきません。小さな日常を生きた小さな家族の結末は大輝くんの自死で終わってしまいます。それは写真からはわかりません。吉田さんの文章を読むことで初めてわかることになるのです。
もし、この写真集にその文章がなかったら、どうでしょう。おばあちゃんと大輝くんの間の関係性になんらかの感情を持つとは思うのですが、「感動」まで行くのでしょうか? 
自死という結末を知ってこの写真集を見たときの落差が感動を生むとしたら、やはり、文章は必要なのでしょう。

ですので、写真に文章をつけることを「禁じ手」とするのはいかがなものかと思うのです。
やっぱり、言わなきゃわからないよ、という事は、言わなきゃいけないのではないでしょうか。

とはいうものの、文章にウエイトが偏り、写真が補助的になってしまったとしたら本末転倒で、写真集ということでは無くなってしまいます。やはり、先に写真が必要で、写真側にウエイトが寄っていないといけないのでしょうね。



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