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ドラマ 火花についての限りなく私的な考察② 神谷

波岡一喜の演じる神谷には不思議と穢さがない。門脇麦の真紀にも軽やかな透明感があって、普通ならどうしようもない共依存的な関係になりそうなのに清潔感さえ感じられるのが不思議だった。

神谷をみていると宮沢賢治の「貝の火」を思い出す。その手に持つことが類まれな宝玉を数日間だけ手にしていた兎の仔の話だ。以下にその宝玉の描写を引用させて頂くと

「見える、見える。あそこが噴火口だ。そら火をふいた。ふいたぞ。面白いな。まるで花火だ。おや、おや、おや、火がもくもく湧いている。二つにわかれた。奇麗だな。火花だ。火花だ。まるでいなずまだ。そら流れ出したぞ。すっかり黄金色になってしまった。うまいぞうまいぞ。そら又火をふいた。」

奇しくも「火花」というワードも出てくる。

あほんだらの、アドリブ感満載の漫才はまるでポエトリーリーディングを観ているようだ。実験的で鮮やかで。徳永のような資質を持つ青年は一瞬で魅了されるだろう。このドラマを観る私たちも魅了されてしまう。

けれどその輝きは僅かな一瞬だけのものだ。「貝の火」を持ち続けるのはとても難しい。神谷も例外ではなく、ほどなく残酷な現実に飲み込まれていく。「貝の火」を手にした兎の仔は幸せだったのか、それによりかえって不幸になったのかはよく解らない。それは手にしたことのあるものにしか解らないのかもしれない。

波岡一喜の演じる神谷は、私にとって昔読んだ童話に出てきた「貝の火」の面影を持っている。確かさと儚さを併せ持つものとして憧れの存在だ。

伝え聞くことしかできない伝説だ。









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