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①東京から京都へ徒歩で向かった話 【蒸発紀行 1〜2日目】

これは筆者とみりゅうが、東京から京都へ徒歩で向かった時の話です。
失踪するように始めたこの旅を、僕は【蒸発紀行】と呼ぶことにしました。
当初はノンフィクション小説としてKindleで出版しようとしていたのですが、本格的な縦読み文章を書けるような力量ではなかったと途中で気づいてしまったため断念しました(笑)
その代わりにnoteでカジュアル且つ画像付きの小説として再挑戦することに。Kindleにはそれ以降に出したいと思っています。
蒸発紀行シリーズはYouTubeでロードムービー風に先行公開していますが、ここではより生々しい心情や事情などを詳細に記していきます。
まずは1日目から"気の向くまま"公開していく予定です。
拙い文章ではありますが、一つの紀行文として読んでいただけたら幸いです。

プロローグ

──  2023年  ──

気づけば上京して6年も経っていた。うだつの上がらない日々を過ごす自分に嫌気がさし、この無意味な葛藤は何度繰り返しただろうかと、いつものように答えの出ない問いに悶える。

28歳の僕は東京生活を食いつなぐために勤めていたバイトを辞め、住みなれた東京に残りたいという思いで消費者金融で10万円を借り、その後もまともに働く気が起こらず5月中旬まで消費的に過ごした。

今回はいつになく悩み続け、どういうわけか2日間も寝込んでしまった。
正直こんなことは初めてだ。
しかし、病み上がりにはどこか達観したような開き直りを感じていた。

「ここまで来たら…思い切って落ちてみようかな…。人間どうせいつか死ぬんだし。」

こうして僕は5月中旬、東京から京都まで徒歩で向かう旅を決心した。

「無職の借金持ちが500kmの歩き旅か…」

これが“血迷う”ということだろう。
さらに暗い谷へ下っていくような不安や恐怖心に襲われたが、これはしなければいけない作業なんだと自分に言い聞かせた。とにかくあらゆる制限を取っ払って現状を打破したかったのだ。

今動けないなら今後もずっと何もできないままの人間になってしまうだろうという脅迫めいた観念だった。

6年前に夢を追って上京したはいいが、これまでに何度も条件に縛られては言い訳をし、多くのチャンスを逃してきた。
そんな自分に何度うんざりしたかわからない。
未来の見えないこれまでの自分と決別するためには、もはや荒療治しかないと気づいたのだ。

なんとも痛々しく青くさい動機だが、本当にそう思ったのだから仕方がない。大人になりきれないフリーターが、六畳一間の部屋で壮大に葛藤していたのだ。

本人は深刻だが、傍から見れば滑稽である。結局人の悩みなんてそういうことばかりではないだろうか。

また、僕は2009年(当時14歳)から趣味でYouTubeへの動画投稿をしており、この旅をロードムービー風に仕上げて投稿し、それを観た人たちから賞賛されたいと思う自分もいたのだ。

次に打算もあった。
あわよくば、旅動画が何かしらのきっかけで人気になって一発逆転できないかと微かな狙いもあったのだ。

── 美しさの裏には、欲望がある。──

綺麗事だけでは原動力にならない。
光を作り出すのはいつも陰のエネルギーなのだ。

・・・とにかく、この奇妙な15日間の失踪をありのまま話していこうと思う。

1日目:ブルーな気持ちで東京を発つ

──  蒸発、旅の夜明け。  ──

2023年5月22日、午前3時50分に起床。記念すべき旅の始まりだというのに気分が沈んでいた。
昨夜はすぐに寝付けずに3時間しか眠れなかったのだ。

「本当にこれから出発するのか… 」

そんな重苦しい気分と、寝不足から来る倦怠感でブルーな感情に覆われていた。

すでに着替えや貴重品、テント等を詰め込んでいるバックパックを背負い、4時過ぎの始発に乗って日本橋へ向かった。

6時10分、東京のスタート地点である日本橋に到着。
なぜスタート地点が日本橋なのか、それは東海道五十三次の起点であるからだ。そして終点(つまり旅のゴール)は京都の三条大橋である。

これは大事な旅だ。
京都方面に寄った街から出発して少しでも距離を短縮しようなんて姑息なマネはできない。胸を張ってこの旅の"自慢話"ができるように、有名でわかりやすい東海道の経路を軸に歩くことにしたのだ。

6時20分、日本橋を出発。

──  ついに旅が始まった。 ──

足取りは軽い。
もう後戻りはできないことを覚悟できたのか、不思議なことに重苦しい気分は消えていた。

早速、日本橋駅から品川方面へ歩いていく。早朝の澄んだ空気が心地いい。

ときどき足を止めては目に入る風景を撮る。
交差点を渡る中年サラリーマン、空を覆うビル群、歩道に落ちたゴミをつつく鳩、忙しなく音を鳴らすゴミ収集車。

そんな日常のリズムを、10kg弱のバックパックの重さを感じながら眺めていた。都心の洗練された街並み、人々の忙しない足取りや空気感が、これからの長い旅路を予感させる。
そこにささやかなロマンを感じていた。

なんとなく映像撮影をしながら進んでいくと、いつの間にか銀座のオフィス街に入っていた。通勤者もだんだん増え、スーツ姿のビジネスマン達とすれ違う。まるで『マトリックス』のラストシーンのように、俗世とは別次元に存在しているような気分だった。つまり、そんな自分に酔っていたのだ。

それから2時間ほど歩いて九時前に品川宿に到着。

※東海道には、江戸時代の旅人が利用していた宿場の跡地が「〇〇宿」として
一定の距離で点在しており、今回の旅ではそれらの地点を参考にして歩いている。

品川の道中で牛丼屋を見つけ、朝食を挟みながらひと休憩することにした。
用意した大容量バッテリーでスマートフォンの充電をしながら定食を食べる。

この旅においてスマートフォンの役割はとても重要だった。それは旅のマップであり、動画撮影のカメラであり、暇をつぶす音楽プレイヤーでもある。こまめな充電は必須だ。

足もいくらか休まり、だいたい二十分ほどで朝食を済ませて出発した。次は神奈川県川崎市へ向かっていく。

10時前に品川を抜けてしばらく歩いていき、蒲田へ入るととてつもなく長い大通りが目の前に広がっていた。

── 先が思いやられる蒲田の大通り。 ──

通りの両端には建造物がぎっしりと立ち並んでいたこともあり、気軽に座って休憩できるようなスペースは見当たらなかった。この時、背中と肩に強い倦怠感を覚えていた。荷物が重すぎるのだ。

そもそもだが、10kgのオモリを背負って何時間も歩くことは、誰が見ても苦行そのものである。

それから少し進んで道がそれたところに建設現場があり、そこを少し過ぎて左へ曲がると、ようやく座れそうなスペースを見つけた。すぐさま荷物を降ろして地べたに座り込む。

「やっと座れたわ…」

品川の牛丼屋から出て二時間、夏目前の日差しを受け続けていたこともあって、とても疲れていた。

「本当に京都にたどり着けるのかな…」

正直、この時点で心が折れかけていた。少し無理をして歩いていたようだ。

5分ほど休憩をして旅を再開し、神奈川に向かって歩き始める。たった数分の小休憩だけでもずいぶん回復していた。次の地点は神奈川県の川崎市だ。

正午になる前に東京と神奈川を隔てる多摩川の橋を渡って、ようやく川崎市に入った。ここまでで、おおよそ20km歩いたことになる。

使っていたマップアプリには歩行者としての誘導機能がなく車道の誘導に惑わされていたが、基本的には王道ルートである東海道を軸に歩き続けていたこともあって一応順調に歩けていた。

川崎市に入ってからは、道路横の街灯に『東海道 川崎宿』と書かれた旗が付けられていたおかげで、神経質にならずに歩き続けることができた。

また少し歩いて栄えた街から離れ、こじんまりとした休憩スペースを見つけて、靴を脱いで5分ほど足を休めた。リズムよく歩くためには、小刻みに休憩を挟むことが非常に重要である。

それから少し歩いて古びたアウトドア店を見つけた。
5月下旬、1日目にしてわかりやすく日焼けをしていた。今被っているスポーツキャップでは心もとなく、これからさらに日差しが強くなることへの対策として、全体にツバがついたサファリハットを買うことにした。

1,000円程度のカーキ色のサファリハットを購入し、ひとまずバックパックのカラビナにぶら下げて歩き始める。
我ながらこなれ感のある旅人のような気持ちになり、単純ではあるが気分が上がってきた。

それから鶴見税務署を少し進んだところで寄り道し、鶴見川のほとりで小休憩を挟む。風が吹いていて気持ちがいい。

大通りに戻り、進む先のさらに遠くをじっと眺める。

「今、京都に向かって一人で歩いているんだ…!」

冒険の始まりのような好奇心と高揚感が体中を巡っていた。
江戸時代に生きていた僕らの先祖たちは当たり前のように500kmの東海道を歩いていたと聞くが、現代では交通機関での移動が当然の感覚であり、だからこそ歩いていくことのハードルが高く感じられる。

そして、見えない明日に男の浪漫を感じるのではないだろうか。

──  この先何が起こるかわからない胸の高鳴り。 ──

これからどんな景色が見れるのだろうかと、心を弾ませながら進んでいく。

自動販売機でエナジードリンクを買って飲みながら歩いていると、いつの間にか13時に。気づいたら横浜市に入っていた。新子安橋の下をくぐって少しすぎた場所に大きなマンションがあり、ひらけた休憩スペースで賞休憩を挟む。

ちなみに昼食は取っていない。というよりも、基本的に普段の生活習慣として、10時ごろに朝昼兼ねて食事をとっているからだ。

13時30分。スタートから7時間が経っていた。
しばらく歩き、横浜駅東口側にある中央郵便局を過ぎたあたりから、少しずつ下半身全体の疲れを感じてきた。

横浜駅を過ぎて休憩場所を探しながら進んでいく。
閑静な高級住宅街を歩いていたこともあり、その辺に座って休憩できるような場所はなかった。気にせず地べたに座ることもできなくはないが、お高くとまった雰囲気からどこか見えない圧を感じ、最低限のモラルは守ることにした。

さぞかし、田舎生まれの貧乏人とは正反対の世界にいる方々であろう。加えてバックパックにサファリハットだ。こんないかがわしい流れ者が怪訝な目で見られないわけがない。通報されたら大変だ。

そんなことを考えながら高級住宅街を足早に去っていく。

そこから2時間が過ぎて15時。
東海道ルートを外れ、帷子川(かたびらがわ)沿いの通路を歩きながら今夜の宿、インターネットカフェを探してみたが、手頃な場所にはなかった。

できれば進む先の延長線上にあると余計な足踏みをせずに済むが、そのような都合の良い場所にはなかったため仕方なく進み続ける。

数十分後、目の前には、疲れ切った旅人を歓迎するように大きなオアシスが広がっていた。保土ケ谷公園だ。期待をしながら入っていくと、遠慮なく寝転がれるようなベンチと水栓柱があった。

「ありがたい・・・」

水道で足を冷やし、木陰になっているベンチで体を休める。
顔や首、手足に白い粉状のものが肌から噴き出していた。

日焼けの影響で塩分が滲み出て干からびていたのだ。
この時は紫外線のダメージで何らかの皮膚炎にかかってしまったのかと深刻になってしまい、もう旅はこの辺にしてリタイアしてしまおうかと本気で頭をよぎった。

足の痛みもさらに悪化していた。
太ももの前側と外側の筋肉、足首の前側、足の甲と裏に痛みを感じる。

これから何日もかけて歩き続けることを考えたら、深刻にならざるを得なかった。

20分ほど休憩して保土ヶ谷公園を後にする。
長めに休憩を取ったことが影響したのか、太ももが筋肉痛を起こしていた。一歩前に足を出すたびに痛みに悶える。
休憩後は痛みの麻痺がリセットされてしまうため、歩き始めは強い痛みをしばらく我慢しなければならない。

途中でドラッグストアに寄り、日焼け止めクリームを買って進む。そして線路を越えて一旦の地点としてマークしていた保土ヶ谷宿に到着。
建造物がまばらになってきた。

──  保土ヶ谷宿の手前  ようやく都会を抜けた。  ──

ささやかな景色の変化に心を動かされ、改めて旅の始まりを感じる。
痛みや疲労で落ち込んでいた気分を取り戻せた。

次の地点として戸塚宿をマークし、今井川(いまいがわ)の川沿いを歩いて近くに鎮座していた小規模な神社に寄る。

個人的に思ったことだが、このような体を酷使する旅においての"寄り道"は、『足への負担がかかる非合理的な行為』であるが、それ以上に『景色の変化により精神的な回復に繋がる』という少しばかりのプラスの働きが強いと感じている。

決してプラマイゼロに相殺されるということではない。
負荷はあれど、旅の小さな楽しみを能動的に味わい、健全な意識を持ち続けることで気力が保たれる。
そうして結果的に肉体にポジティブな影響を与えてくれるものではないだろうか。

逆のパターンとして、長距離ランナーがゴールを目前にして安堵したために、緊張が解けて息切れを起こしてしまうことがある。その表裏一体な精神的な影響をいかにプラスに転じることができるか。

体を動かしているのは筋肉ではあるが、その前に電気信号が行為を促すのであり、さらにその前には精神(心)が司令を出しているはずなのだ。

・・・そこまで面倒臭いことを考えながら旅をしていた訳ではないが、無意識的にそのように感じながら歩いていたように思う。


そこから先へ進み歩道橋を渡って権太坂(ごんたざか)を上がっていく。
足に強烈な痛みを感じ、道路から外れて休憩を挟む。

日焼け止めを塗ろうとしたが、チューブから出したクリームを肌に当てる前に地面に落ちてしまった。疲れから注意が散漫になっていたのだろう。

「どうせ夕方だし今日は塗らなくてもいっか。」

10分程度、民家周辺の適当に座れそうな地面に座り込む。

──  権太坂を下る手前の休憩。 ──

権太坂を下りきったあたりから、足の裏と足首に重い痛みを感じるようになった。足を引きずるように歩きながら、近くにネットカフェがないかスマートフォンで探してみる。しかし進行方向に対して右方向へ300mほど離れた場所にしか無かったため断念した。

仕方なく向かう先である戸塚駅付近のビジネスホテルに予約を入れることにした。テントはあるが、張れるような場所もない上に体が悲鳴をあげている。今は金銭的事情など気にしていられない。

ここからホテルに着くまでの1時間は痛みとの格闘だった。
足の裏全体の悶絶するような痛み。
まるで子どもの頃に裸足のまま少し高い段差から飛び降りて着地した時のようなじんわりとした痛みを、一歩踏み出すたびに感じた。

狭い歩幅でなんとか歩き、信号に捕まるたびにバッグを下ろしてしゃがみこむ。

戸塚駅周辺の街まであと1〜2km程度だっただろうか、出迎えるように江戸時代を思わせるような赤茶色の橋、吉田大橋が目の前に架けられていた。
橋から見える微かな夕日に照らされた川の景色に癒される。

──  足の痛みを忘れさせてくれる瞬間。──

橋を渡って20〜30分程度歩いたところで、戸塚駅周辺のホテルにたどり着いた。

痛みに悶えながら、17時48分に予約したビジネスホテルへ駆け込む。

1日目
6時20分 / 日本橋を出発
17時48分 / 戸塚駅のホテルに到着
距離:43km / 荷物:約10kg

フロントで受付が済み、ショートボブの笑顔がかわいらしいスタッフに渡された手書きのメッセージカードを読む。「本日も一日、大変お疲れ様でした」という形式的な一言にまんまと癒される。
心身ともに疲弊した男にとっては、たとえ義務的な表情であれ十分な栄養になるのだ。あの笑顔はきっとこれからも忘れないだろう。

ところで、借金持ちが一日目から豪勢にホテルである。
予定としてはテント泊とネットカフェ泊を交互に繰り返す予定だったが、想像以上に疲れていた。なにより足を休めなければならない。

薄々こうなるとは感じてはいたが、快適に過ごせる空間が担保できなければ精神的に参ってしまう体質だということが再認識できた。

当初心を弾ませながら購入したテントも、いざこのような疲労感の中で泊まるとなると、強いストレスで心が折れることは容易に想像できる。
シャワーも浴びずにじめついた体のままテントの中で寝るなんてあり得ないし、体も休まらないだろう。

空間的、衛生的な図太さがないと歩き旅でテント泊なんかできないと悟った瞬間であった。僕はそんなに強い人間ではない。

長距離を歩く気力体力はあれど、身近な不快感にはとことん弱い。
なんというか、贅沢な体質なのだ。
金がないというのにこの性分は致命的だ。

とりあえずホテルの浴槽に水を貯めて足を冷やし、シャワーを浴びた。
その後、夕飯に駅のショッピングモールのお店でたこ焼きをテイクアウトした。

たこ焼きを食べながら葛藤する。

「この旅、本当に続行できるのかな・・・」

リタイアが頭をよぎる。
いつものように断念の理由を探し始める。
これも一つの姿だと、泣き言や言い訳を漏らしている自分を映像に収めた。

明日は一日中雨だ。足も痛くて旅を続けられるかわからない状態ではあったが、迷った挙句フロントに電話して明日も連泊する旨を伝えた。

・・・22時、今日はもう寝ることにした。

2日目:戸塚での休足日

──  蒸発2日目、起床。──

8時ごろに目覚めた。
身体を起こして窓に目を向ける。雨は本降りだ。
昨日のうちに連泊の連絡をしておいてよかったと思いながら、11階の窓から戸塚の街を眺める。学生や通勤者たちが傘をさしながら駅へ向かっていく。

── 自分とは全く感覚の異なる人種。週5日の7時間をなんとかこなして、休日はゴルフや家族旅行を楽しむのだろう。

そんなことを考えていた。

2日目はベッドで寝そべりながらスマートフォンでゲームをしたり、動画を見たりしていた。何を食べたのかは覚えていない。
続行するのかも分からない明日に向けて、とにかく休息に徹していた。

夕方ごろに雨が落ち着き、駅構内のコンビニでおにぎりなどを購入した。それから、ドラッグストアでこれからに備えて絆創膏やガーゼなども購入した。

ホテルに戻り、ベッド横の椅子に座る。
一日目でリタイアを決めず、一旦寝かせてみてよかったと思った。
体と脳を休めたおかげで気力と体力がかなり回復した実感があった。

しかし、天気の安定しないこの時期での旅のこれからを考えると不安や焦りが多くなる。

まずは体が資本。
怪我や事故に巻き込まれればすぐさまこの旅が終わる。
一日身体を休めて次に備えることも大事だが、体を休めるということはホテルやネットカフェなどの利用回数が増えることになる。

必然的に、金銭面と個人的な心配事も増えてくる。

なぜこんな時期に始めたのだろう。
もっと適切な時期があったのではないか。


── なぜこの時期に旅を始めたのか。 ──

このような長距離歩行旅を快適に行うためには、余裕のある日数設定と、一日に歩く距離や速度を無理なく保つ必要がある。
例えば、僕のように東京から京都まで約500kmを"あくまで快適に歩くことが目標"であれば、まず25日間は必要だろう。
その上で1日20kmを5〜6時間かけておこなうのが快適さを保つ歩行旅のスタイルだと言える。

しかし借金を使って旅をしている僕には、そのようなゆったり気ままな観光旅はできない。
なるべく早いペースで進まなければ気も遠くなってしまうだろう。

また他にも、なるべく急がなければならない理由がある。

この旅を始める1ヶ月前、母方の祖父が白血病を患っており、もう長くはないと家族から連絡を受けていたからだ。
不謹慎な話で言いづらいが、旅がどれだけ進んでいたとしても、"その連絡"が来た時点で否応なく中断しなければならない。それだけは避けたかった。

人でなしだと言われたらそれまでだが、それ以上に大きな課題として、まずは自分との約束を果たさなければならないと思っていた。

この旅は、煮え切らない自分を克服するために自ら課した目標をなんとしても最後までやり遂げたいという譲れない気概があった。

それは自分に対しての使命感であり、ある種の情熱だったのかも知れない。とにかく、この"最後のチャンス"を逃さずにやりきることで、少しでも希望を持てる自分になりたかったのだ。

思い立ったが吉日。瞬間的に燃え上がった熱は冷めやすい。
時期や条件など関係なく、今やらなければ一生後悔すると直感がメッセージを発していたのだ。
28歳で独身、フットワークが軽いのは今この瞬間だからである。
今やらなければ、一生やれないだろう。


とにかく、諸々の事情や想いがある中でこの長距離歩行を決行したこともあって、ホテルの中で悶々と考えていた。

そうしているうちに1日が終わり、いつの間にか眠っていた。


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