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はずれない腕時計

入居したばかりの90代男性の初入浴に立ち会う機会があった。

男性は数年間、独居生活を続けていて、定期的に入浴していたかどうか分からない(たぶんずっと入っていない)皮膚の状態だった。

つまり手足は垢だらけ、爪は伸び放題、脱衣すると鱗のように薄くはがれた白い表皮がふわぁと舞うような。

一般的に、独居を続けていた方は介護される事に抵抗が強いことが多い。しかしこの男性は「ありがとうねぇ。」ととてもフレンドリーで、入浴担当のスタッフも笑顔で応対し、脱衣所は和やかな雰囲気だった。

衣服は全て脱いだ、さあ入ろう!あ、腕時計まだ外してないね、...あれ、固いね、これどうやって外すのかな?〇〇さん、ご自分で外せます?

「これ外れないんだよ。」とご本人。

え。外れない、とは?いつから?
色んな疑問が頭に浮かぶが、着けたまま入浴する訳にはいかないよね...このCITIZENの金属ベルトの腕時計、ちゃんと動いてるし。どうにかして外してみよう。ああ、でももう全裸になってる...

男性スタッフが力任せに外そうとバックル部分に指をかけても動かない。よく見ると腕時計の金属の溝の至るところに、黒なのか茶色なのかホコリの様な何かがびっしり詰まっている。
これを排除しないと外れないのでは...?

スタッフの一人が、どこからか細いマイナスドライバーを調達してきた。バックルの隙間に入れ、詰まっているモノを掻き出し、テコの原理を使って外そうと試みる。何度か試すと、開いた。

「お!外れた!」ご本人も全裸で喜ぶ。
入浴中にキレイに掃除してあげようと思ったが、この場にある使えそうなアイテムは、綿棒、爪楊枝、おしり拭き。
ま、これでやってみよう。

幸いな事に錆びてはいない様で、綿棒や爪楊枝で擦るとベタベタしたホコリの塊みたいなモノがボロボロと剥がれる。それを落として、仕上げはウェットシートタイプのおしり拭きでキレイに拭き取る。

なんと、ピカピカになった。
いつから外していないのか本人に聞いても覚えていない。一人暮らしの数年、ずっと彼の腕にあったのだろう。まさに一緒に時を刻んできた、相棒。
そう思うとなんだかほっこりする。

入浴を終えた男性に腕時計を渡すと、スッと自然な動作で左腕にはめた。うん、よくお似合いです。

あ、ちゃんと外れるかを確認する前に渡してしまった。詰めが甘いんだよなあ、私。
浴室にはマイナスドライバーを常備しておこう。


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