Lemon #5

ドレスの試着が終わった後、サユリとマンションへ一緒に帰った。サユリは一間のマンションで夕食のぶり大根を作る為に大根を切っている。僕はソファでぼんやりとテレビのプロ野球中継を見ていて、負けているチームを応援している。別に、どちらが勝とうとも拘りはなかった。
「ねえ。お皿取って」
サユリの声がして、僕はサユリがエプロンを着け、大根を切っている後ろ姿を見た。ほっそりとした体。僕はソファから立ち上がり、台所の食器棚の高い所から平皿を一枚、背伸びをして取る。そして、台所に置くと、僕は大根を切っているサユリを後ろから抱きしめる。ほっそりとした背中に僕の指が絡みつく。サユリはくすくす笑う。
「包丁で、指、切っちゃうじゃないの」
サユリは包丁で大根を切るのを止めた。僕は指を滑らせ背中越しにサユリのお腹に手をやる。
「足で蹴るのよ」
「まだ早いよ。1か月だろ?」
「でも、蹴るの」
サユリは笑って、肩を揺らす。サユリは先ほどまで後ろで結っていた髪を解いて、髪を肩の下まで降ろしていた。僕は後ろから一層、サユリとお腹の子を抱きしめる。ベランダから夕陽が差し込んでいて、部屋を赤く染めていた。ああ、赤だ。そこでプロ野球の実況アナウンサーが大きく叫ぶ。「ホームラーン」アナウンサーが世界がまるで熱狂しているかのようにテレビの音声を通じて絶叫する。スコアを見ると負けていたチームが一本のツーランホームランで逆転していた。
「幸せすぎて怖いの」
サユリはぼそっと漏らした。サユリは僕からみて後ろ姿しか見えなくて、その表情が窺い知れない。
「本当に幸せだと思うのよ。怖いくらい。あなたがいて、お腹に赤ちゃんがいて、そしてもうすぐ結婚して。でもね、こんな時間なんて、一瞬で壊れちゃうかもしれない。そんな夢を時折見るの。真夜中に夢にうなされて、はっとして起きると、隣にあなたがいて。私は慌てて、お腹に手を当てるの。ああ、また大丈夫だった。そして、安堵すると同時に泣くの。何故泣いているのか自分でもわからないの。不安なのかなあ、なんて。不幸な時は、一生懸命動いて、不幸から逃れようと必死に頑張ればいいじゃない?」
サユリの肩が揺れていた。
「でもね。幸せになると、今度は怖くなるの。こんな幸せなんか、一瞬で壊れるんだ。吹き飛ぶんだ。と思うの。子供の頃からそう思ってた。貧乏性なのかしらね」
サユリはこっちを向いて、微笑む。でも涙が頬を伝っている。僕は、そっとサユリの顔に手を伸ばし、涙を人差し指で拭く。
「僕がいる」
「分かってる」
「分かってない。僕はいつまでもサユリから離れないし、お腹の子をなんとしてでも幸せにする。どんなに僕が不幸のどん底にあっても、君と子供だけは守る」
サユリは涙を堪えるように、一つ深呼吸をした
「ありがと」
僕はサユリを抱き締めたまま、サユリの唇にキスをする。冷たい唇。何度もしてきたキスなのに、初めてキスしたかのように感じた。唇から涙の味が少しする。赤く部屋を染める夕陽と、うるさい野球の実況中継。そして、僕はただサユリを抱きしめていた。

独居房の赤い夕陽はもう沈んでしまっていて、夜の闇がまた房を侵食していく。房の入り口を見ると、鉄格子から白い仮面をつけた看守が僕の顔を覗いていた。その顔からは、なんの感情も取り去ったかのように、動かない。看守に何も言わずに、そっと入り口の下から、紙とペンが差し出す。
『ほしいものは?』
ワードプロセッサーで書かれた、無機質な文字。書類もまた、看守同様、なんの印象も与えない。僕は「ほしいもの」と無言でかさついた唇を動かした。僕が振り向くと、黒い十字架が微かに揺れた気がした。

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