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アメリカ激闘記③ (仮)

さっき会ったばかりのアメリカ人達の、明らかに目から発せられている(静かなる)圧力の中、当時の若かりし僕は、アドレナリンも放出されたのか、本来いつもなら3回、いや5回に1回しか成功しないような技も一発で成功させた。内心胸を撫で下ろすと同時に、その頃の本番への勝負強さへの(ひとかけらの)自信の手助けにもなった。

それでも次々と出されて行くお題。アメリカ人のあとに続きパフォーマンスが続く。もちろんトランクと荷物はまだすぐ傍らに。笑。喉が渇いても、その日は水すらどうやって買ったらいいかわからなかった。笑

僕は"土台"を作ろうと決めていた。後から来る(はずの)日本人のためにも。彼らが大好きだった。それが並大抵ではいかない、ということも、自宅でパワーレンジャーのビデオを見て、「凄ぇなぁ」なんて言ってる頃からわかってた。それでも日本人や、その魂・文化が「凄ぇ」って思ってほしかった。

取り敢えず"芝の上での"「第1次試験」は、何とか首を縦に振ってもらったようだ。。笑


そんな僕はすぐに洗礼に遭った。ショーのリハーサルのステージ裏で、僕のカバンがナイフで切り刻まれた。ホテルでは、何者かに部屋に侵入され、現金・衣類などが盗難に遭った。

何人かのメンバーは、「I'm sorry…」と気遣ってくれたが、当時の僕としては、もしかしたらメンバーの中に犯人がいるのかも… とさえも思えてしまった。

当初「主役で」という話だったが、結果、様々な理由からTour全体(約3ヶ月)を通し2日間ほど以外は全て脇役だった。さて、その中でどう自分の価値を見せるか、日本人の来る意味や、凄さをどう感じ認めさせるか。毎日の課題だった。 毎日電子辞書を片手に、メンバーの部屋にお呼ばれしては片言で話した。

とはいえ、日本のエンターテイメント界とは異なり、実質実動のギャランティとは別に、普段の各地の滞在における(パーディアムという)生活費は十分に支払われていた。大体のメンバーは、(若気の至りということもあり、)これを派手な遊びに使っていた、ということは否めないように思う。これが結果的に、この興行の大赤字でもあった一端にもなっていたのでは?とも。。

しかし蓋を開けてみれば、悪い奴はひとりもいなかったと思う。もともと業界人のメンバーは数人しかおらず、ほぼ一般のマーシャルアーティストからオーディションで募った。

ここにどうプロ意識を芽生えさせるかが一番問題だった。

中には寝台バスをラブホテルがわりにするメンバーもいた。

かく言う僕も、オフの日は、他の唯一の日本人であるコーディネーターの先輩と真っ赤なマスタングのコンバーチブルを共同でレンタルし、(実質カーレンタルをしなければ生活できない)当時流行っていたブリトニー・スピアーズやバックストリートボーイズをラジオで聴きながら、助手席でナビをしていたのを覚えている。

優越感というより、これで良いのだろうか?という疑問感の方がことさら強かった。
ほんとは僕は、ホテルでじっとして、週末に向け集中して、(日本にいる)当時の彼女や友人と、覚えたばかりのPCのメールでやりとりをしたりしていたかった。ワニなんて食いに行きたくなかったし、ストリップなんか全く行きたくもなかった。(実質、田舎町では準備中のストリップ劇場で昼食をとるしか手段がなかったこともあるが…)

それでも練習やトレーニングを兼ねて、メンバーと共に週に何日かはジムに通っていた。当時、「パワーレンジャーのパフォーマーだ」と言えば大概は無料で入れたようだ。

当時はアメリカ人メンバーからカリや近接格闘などを教わっても、いったいこのヒーローもののショーに、何の役に立つのだろう… と頑なに思っていた。笑。


後に大好きになったコーディネーターの先輩に、「僕はこのアメリカ人の流れに沿って行動し、(プライベートでも)鋭意的に参加した方が良いのですかね…」と何度か相談した。むろん、頷かれた。

そう、ここは紛れもない"アメリカ"の地で、彼らはこの先航海を共にしてゆくクルー、そして僕は、ここでは紛れもなく"外国人"なのだ。


"④"に続く…

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