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誰もが子がほしいと思っていて当たり前という世の中で生きていくことについて

わたしは「女嫌いな女」なのだろうか…?


きのう書いたnoteの延長的なかんじなのかな、ずっと前からそう疑問に思ってはいたのだけれど、わたしはやっぱり「女嫌いな女」というものなのか、「女の敵の女」なのか、とか、フェミニズムというキーワドまで持ち出すのはめんどくさくなりそうだけど、「反フェミ女」(っていうんでしたっけ?)みたいなことをもう少し考えてみたくて、書くことにした。

「子どもを産んだ女性記者として、育児と両立しながらも働きやすくなる世の中になれる記事を書きたい」

10年ほど前、10年近く勤めていた全国紙の新聞記者を辞める直前くらいに、間もなく産後復帰するタイミングの仲のいい同期の女性記者とごはんを食べる機会があった。

その女性記者は、生まれて数ヶ月の赤ちゃんをあやしながら、最後にわたしにこう宣言した。

「わたし、この子たちの将来が、もっと明るく、住みやすくなるように、あと、わたしみたいな働く女性が、もっと働きやすくなるように、たとえば待機児童の問題とか、子育ての孤立の問題とか、仕事との両立とか、たくさん取材する、そんな記者になる」

産後復帰前という節目のタイミング、そう自分で自分に言い聞かせて、育児と子育ての両立について腹をくくったように、彼女は強いしっかりした目で言った。

「母親になったからこそ、わかった」「うちの子があなたみたいに育たないように」…

それに付け加えて、以下のようにわたしのことを言われたのは、そんなふうに思っていたのかと、じわじわと傷ついていった。いまでもふと思い出しては、悔しさがこみあげてくる内容だ。本人は、正義感に燃えて、忘れているだろうし、そこまで考えてないから言えるのだろうけど。

「わたし、子ども産んで、守るべき存在ができてわかったの。mieちゃん大人になってからも虐待受けてたことよく話してる意味が。だから、うちの子がmieちゃんみたいな子にならないように、どんな母親になればいいのか、『母親』にかんする本を産休中にすごく読んだ。

だからこれからは、mieちゃんの母親みたいなお母さんに私もならないように、子育てしやすい社会を、わたしががんばって取材して作っていきたい。そんな記者になりたい。わたし、復帰してからの自分が楽しみだよ。母親目線で書けるし、会社がそういう女性記者の記事を応援してくれてるし」、って。

書きながら、いまでもむかついてしまった。その話を聞いて、彼女は仲のいい、友達みたいな同期でもなんでもなかった、とも思って、さーっと気持ちが冷めていった。

ここでいちいちむかついたり傷ついたポイントを説明することははしょるけど、何重の意味で、わたしはこういう女が嫌いだ。

別に「女」に限らないけれど、総じてそういういろいろなエピソードを総合的に勘案すると、結果的に女が嫌いということになってしまうのかなとも思う。

「私にも、子どもがいるからよくわかります」「子育てするものの視点」

新聞記者として、まわりの同僚の取材だったりも、見える。いまでもテレビの記者やインタビュアーやコメンテーターとかも、こう言っている人がいる。

「わたしには、◯歳の子どもがいるので、すごくよくわかります」というフレーズ。

たとえば、テレ朝の週末夜のニュース番組で、アヤパンがいつも言っている、「子育てするものの目線からニュースを伝える」「わたしも子育てしているから云々」「女性ならではの視点で」などなど。

以上のフレーズやエピソードから、わたしが感じるのは、人間だったら、当たり前のように、子どもがほしいと思うものであるというプログラミングが、100%においてされているという、とんだ勘違いだ。

少なくともわたしは、そういうふうに子どもがほしいというプログラミングが備わっていなかった。

なんで人は自分で生みたがるのだろう?

同時に、なんで人は、自分で生まなきゃ気が済まないのだろうというのも、とても不思議だった。

余ってる子(語弊があるかもしれないけど)だっていっぱいいるのに。こんなにいろんな事情で親子のマッチングされなくて、生き別れたり不適切な環境で育ったりして、あぶれてる子だっているのに、そういうこと、なおさら記者なら取材してわかっているのに、一般の人だって周知の事実なのに、なぜか新しい命を自分で作り出そうとする。

その無駄な行為といったら。フードロスは出さないようにしましょう、活用しましょう、コスパやタイパとか断捨離とか言っても、そこだけは治外法権なんだね、って。そこがよくわからない。

だって、すでにあるのに、それでも自分たちのものをほしがるのだから、せめてその傲慢さや身勝手さをもかかえながら親をやっていくのが、自分にとっては子にたいしてフラットにわきおこる思いだ。

だけど、自分の子どもについての話になると、人は、そんなことを棚に上げて、そのはなしだけは特別、みたいに甘々になってしまう。すごい矛盾だなと。すごい乱暴なロジックだなと。

だけど、これは自分の価値観であって、わたし自身も他人に価値観や正しさを押し付けられることは一番されたくないことだから、黙ってこれからも静かにしているけれど。

自分たちの種子で、自分たちのおなかから出さないと、なんで満足できないの?

事実、わたしと夫は去年、余っている犬である小夏ちゃんを、家族に迎え入れた。

職場で、「子どもは?」と聞かれると、「犬がいます」と答えると、一瞬、そう質問した側の変な沈黙の間があいて、「そ、そうですか…」と、そこで会話が終了してしまう。

もっと仕事と子育ての両立のこととか、きょうのお迎えの時間とか、そういうことを話したがってるのは、わかってはいるけれど。

厳密にいうならば、わたしにとって犬=子ではなくて、別に子どものように犬は扱っていなくて、相棒だったり家族の一員的な存在としてわたしたちはみているけれど、

だけど、世の中っていうのは、自分たちの種子によって十月十日おなかのなかで育てないと「子ども」とは認めてくれないんだな、ということを、常に思い知らされる。

養子縁組の親も、「おなかのなかにいたことはなくても、我が子は我が子」なんて、そんなわざわざアピールしなくてもいいのに、そんなふうにいちいち言わなきゃいけない、めんどくさい世の中。

ちなみに、もう少し我が家で余裕が出たら、どんなご縁になるのかは未定だけど、犬の兄弟(人の可能性もあるしほかの生命かもしれない)をお迎えして、家族を増やしていきたいね、なんて話もしている。

出産可能年齢が37歳までとか、それ以降は羊水が腐るとか、どうでもよくないか。でもそこに必死な女たちがいる。

「社会」の思惑に沿った人間だけが自分のことを語れて、お得に生きていける

そんなような自分からしたら、出産や子育てへの政府の支援を手厚くする取り組みは、まるで、子どもがほしいというプラミングが当たり前にそなわっている人だけが、よりよくなる世の中をイメージできるしくみのように思える。

自分が自分のまま行動していって、よりよくなれば、みんなお得になれば、政治や社会にも参画しようと思えるし、仕事ももっとがんばろうという気持ちにもなれるし、右肩に上がっていける未来が、現実どうかわからなくても、希望がもてる。

だから、スポンサーも、スープストックみたいな企業の「世の中の体温をあたためる」みたいなキャッチコピーを掲げた社会的取り組みも、広告も、あるいは、広告に踊らされてることにも気づかず、それも正義感だのジャーナリズムだの言ってる記者も、それにみんなそれに寄ったものを生産していく。

そんななかで、「子どもがほしいという気持ちは自分にはそなわっていない」なんて言ったところで、金にならないという視点ですぐにスルーされる。

あるいは先日、ある男性記者が、日本の扶養妻が年収103万以下になるように働き控えているという現象についての特集について、フランスの個々に備えられた社会保障制度について紹介していたけど、

その記者が「同じテレ朝社内でも、自分は単身だから、子ありとは待遇が雲泥の差で、割りばかり食ってる」と取材に付け加えて言おうもんなら、「結婚できない独身の僻みだ」とか、「記者ならそんな自分のこと言わなきゃいいのにね」なんて反応で炎上したりする。

でも、これもおかしいし、すごく矛盾している。

子どもがほしいという本能的なものが当たり前に備わっている人は、じゃんじゃん自分の子どもも話をネタに、取材を円滑に弾ませていったり、それをもとに「女性目線」だの「子育てを知っている女性(男性)ならではの目線」なんていって、社内的にも広告塔のように起用されていくのに。

そうやって、世の中の当たり前といったら当たり前だけど、そうした思惑にそっている人間だけが、自分のことを語っても、それが正しいこととして、自分のことを語っているととらえられずに、社会を自分ごととしてとらえている立派な人という評価をされる。

だけど、事実、ほんとに割をくっておかしい、困っている、という人が自分のことを語ると、この仕打ち、って。

それじゃいまの社会には関心を持てないし、希望も持てないし、なにか言ってもなかったことにされるし、個人の幸福追求の実現にいそしむようになるでしょうよ、と。

広告に踊らされていることにも気づかない異常な国民性

我が国が、個人の幸福追求だったり、個々な方向をよしとしないのは、広告やスポンサーのいうことを、信じている異常な国民性にあるように個人的には思う。こんなにだまされやすい人たちっているのだろうか。これじゃあジャーナリズムが流行らなくなるなあと。

ジャーナリズムが流行る国とは真逆の方向性だから、自分の頭で考えようとする人にたいしては、自分の頭で考えないように、どこにいっても広告に踊らされる仕組みになっている。そこから逃れられないような、消費観覧車に、みんなしてのせられて、ただそこをぐるぐると回っていて、どんぐりの背比べしているだけ。

そんなどこに行ってもかわらないからくりを見ているから、もういいよ、ってすごく冷めてしまうし、そこで活躍したところで、楽しくないし、人生そんなところで無駄にしたくないわと。

「あの人は子育てしてないからわからない」

また、「子どもを生んだことがないあの人はわからない」「子育てしたことない人に女性の気持ちはわからない」とかいう偏見についても、やはり同様だ。

やっぱり、男性側、女性側にとっても、子を持ちたいと思うこと、そう備わっていることが前提というところで話が進められていて、わたしには、そもそも話かみあわないな、って思ってしまう。

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