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「犬と一緒に過ごせるカフェ」を求めて心が削れた体験記②

前回の「犬と一緒に過ごせるカフェを求めて心が削れた体験記①」では、15分もかからない最寄駅まで1時間もかかってしまい、これからさらに1時間以上かかるカフェへの道のりに、早くもぐったりしてしまったことを書きました。

なによりも、最寄駅までの道中では、誰かが自分たちを直接責めているわけではないのに「世間の目」のようなものをなぜか勝手に感じとってしまい、責められているかんじや、孤立感を感じて、非常に心に余裕がない状態になってしまったのでした。

2回目の今回は、引き続き心の余裕がないまま、電車に乗り込んでからのことを書こうと思います。

引き続き苛む「世間の目」というもの

引き続き、わたしをいちばん苛んだのは、やはりその「世間の目」というものだった。普段は、そんなものは、漠然と自分が生み出しているイメージ、虚像にすぎないとわかっている。

そんな体面ばかり気にして生きている大人のことが、わたしは子どものころから大嫌いだった。

だけど、そんな大嫌いな人間にいま、なっている。

足元に置いたキャリーが、幅をとって邪魔になっていないだろうか?

マナーパンツをしているといっても、小夏ちゃんがうんちなどをして車内を臭くすることはないだろうか?

いつもはおとなしくしている小夏ちゃんだけど、慣れない移動にパニックになって声を出したり、あるいは振動で乗り物酔いなどを起こしていないだろうか?

などなど。

同時に、自分だけ社会と隔絶されてしまったような、言いようのない孤独感が、そこにはあった。

公式に認知されていないグレーゾーンみたいな存在を抱えている以上、自分ですべてなんとかしなきゃいけないのだ、とすごく気も張っていた。

小夏ちゃんの顔が見えず落ち着かない

とはいえ今回は、小夏ちゃんと顔を向き合わせながら膝の上に乗せて座れる、宇宙船リュックではなくて、いざとなれば犬の存在を周囲に気にされないように配慮するカーテンもついているキャリーだ。

足元に車輪がついていることもあって、膝にも乗せられない。

小夏ちゃんの顔を覗き込むには、顔を足元まで近づける必要があったが、そんな不審な動作をしたら、変に注目が集まってしまって、いい意味でも悪い意味でも「あ、犬がいる」というふうになってしまうから、それもできない。

わたしはせめて、小夏ちゃんが顔を寄せている側面の網戸に手をあてて、自分のにおいを伝えようとしていた。

気の休まることのない、長い長い時間だった

あとは、そんなこと人間の赤ちゃんだって、子どもがいたら当たり前じゃんと、わたしは世の中の「お母さん」経験者に怒られてしまうのだろうけれど、こんなことを思った。

乗り換えの大手町まででも、時間はけっこうかかる。

だけど、ひとりだったら、音楽を聴いたり、本を読んだりしていたら、あっという間で、苦痛じゃない。

だけど、音楽を聴いてしまえば、外界の情報が遮断されてしまうから、小夏ちゃんの安全を考えたら、外界の音や、小夏ちゃんの出すかすかな声には、すぐに気づけるようにしていたい。

本を読んでしまったら、わたしはひとつのことに集中してしまうと、別のことがまったく見えなくなってしまう特性があるので、これは無責任とかそういう概念を超えて、小夏ちゃんといることを忘れてしまう可能性があるから、それは怖いことだから、夢中になる可能性のあることは、するのはやめようと思った。

とすると、できるのは、せいぜい、スマホを眺めることくらいだけれど、先に書いたようなただでさえ落ち着かない心理状況のなかで、中身もあまり入ってこずに、気を紛らわすためにスクロールしてみてるようなふりをして、頭の中ではただただ、時間通り電車は着いてくれるのだろうか、めんどくさい大手町乗り換えが、この重い荷物を持ってスムーズにいくのだろうかとか、もうそれだけでキャパがいっぱいになってしまうのだった。

ただでさえ「世間の目」にノイローゼになるくらい心が削られている状態で、わたしはヘルプマークを持っているので優先席には座っているのだけれど、隣の席や向かいの席に、立ったり座ったりして出入りする人の邪魔にならないように気遣ったり、なによりも小夏ちゃんがぐったりしてないかとか安全のことを考えたりしたら、全方位360度、神経がぴりぴりして休まらないのだった。

ベビーカーがうらやましいと思った

途中、何人かベビーカーに赤ちゃんを乗せた女性が入ってくるのをみた。

純粋に、すごくうらやましくなってしまった。

うちにも、犬のベビーカーのようなドックカーがある。

歩いて病院に行く途中

本来は、電車の移動が楽になると思って買ったのだけど、夫と一緒に小夏ちゃんを乗せて実験的に電車に乗ってみたけれど、どうしても人は、こういうもののなかになにがいるのかのぞきたくなるようで(もしかしたら、人はそこまで考えてはいないのかもしれないけれど、どうしても「世間の目」を気にするあまり神経質になってしまったのかもしれない)、犬であるということが、よくも悪くも、目立ってしまったような気がして、以来、ドックカートはあるけど、出番がなく眠っている状態だ。

それでも、人間の赤ちゃんとはちがって、メッシュ付きのほろを完全にすれば、あまり外から犬の存在が見えないようなつくりにはなっている。

とはいえ、メッシュなので、のぞこうと思えばなにがいるかはわかる。

人間の赤ちゃんを抱えるママも、ベビーカーはベビーカーで大変な思いをしているということは、わたしも知っている。

だけど、それでも、「大変だ」ということが、社会で共有をされていて、それでさえ、残念なことに心無いことを言う人があとをたたないという状況だ。

それに対して、犬連れで公共交通機関を移動するのは、「大変だ」という声にすらなっていないというか、子どもは次世代を担う宝だけれど、犬は、人間以前に、「手荷物」という認識なのだから。

「大変だ」なんていってしまったら、なにをとんちんかんなことを、「だって、犬でしょ?」なんて言葉が、大半の人から返ってくることが、想像できる。

飼い主もそれを分かってなのか、そうじゃないのかわからないけれど、でもいろんな飼い主がいるので、価値観の話をしたらきりがない。

「お母さん」からも、犬と一緒にして考えないでとか、言われそうだし。

人も犬も、同じ命を持った存在として祝福し合えればいいのに

赤ちゃんにとっても不安な電車での移動でも、ベビーカーで、赤ちゃんの表情を確認しながら電車に乗れるお母さんが、純粋にとてもうらやましいなあと、わたしは思った。

「赤ちゃんを連れた、ベビーカーをひいている人」としても、車内のコミュニティでは、ちゃんと認識されている。

一方で、わたしは、「ヘルプマークをつけて、優先的にすわった、重そうな荷物を持ってる人」みたいな立ち位置だろうか。

ほんとうは、それだけじゃないのに。

もっと、犬を連れていることを、堂々と、そんなうしろめたい気持ちではなく、こそこそとではなく、赤ちゃんも、犬も、祝福しあえるような世の中がきてほしいと心から思ったのだった。

次の3回目では、小夏ちゃんとわたしは、いよいよカフェに到着します。どんなことが待っていたのでしょうか。お楽しみに。


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