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踊り続けながら、じーんと沁みてきた感覚に、大丈夫と思えた

さいきんは、あたまのなかが、とてもとっちらかってしまった状態で、過ごしていました。

とっちらかったまま、なにか1つのことに集中して、とどめていることが、なにひとつできない状態だったから、ここになにかを書く、ということも、なかなかできなかった。

なかなかできないというのに、矛盾するけれどなにをやるにも、ひとつのことをやろうとすると、そこから枝葉のように、あれもこれも、それはまるでねずみ講のように、パッ、パッ、パッ、と興味があることだったり、気になることが、次から次へと生まれてきてしまい、あっちへ行ったかと思ったら、急ブレーキをかけて立ち止まって、猛スピードで別のところに引き返したりして、自分で自分が忙しくなってしまって、そのたびにいやになってしまってたまらなかった。落ち込むし。

はたからみれば、そのさまが、なにもかもに楽しめたり熱中したりしてて、楽しそうに映っているようでもある。

「そんなに興味があったり、気になったり、真剣に怒れたりすることとか、熱中できることとかあっていいね」などうらやましがられたり、「そんな自分が案外嫌いじゃなかったりするんでしょ?」と、まるで自己陶酔している人みたいにも言われたりするけど、当の自分はとてもとてもしんどい状態なんです。

いつも、もー、止めて、って思ってしまう。

だけど、そのスパイラルに入ると、自分で自分をもう止めることができないし、どこまでが、もうやりすぎているとか、エキセントリックにのめり込んでいるかとかも、加減がわからなくなってしまう。なにもかもが、ばかになってしまうのだ。

冷静に考えたら、なにひとつ成し遂げられずに、ただ踊り続けているだけの空回りしている異様な状況なのに、なぜかわからないけれど、忙しい。だけど、なにひとつ最後まで成し遂げられずに、途中で放り出してしまっている。冷静に考えたら、とてもおかしいのに、だけど、わからない、忙しい…みたいな。

そしてなぜかそういう時期は、食事に味がしない。普段は味がするから、こんなものを食べたいとか、自分で作りたいなどと思えるのだけど、なんでも砂かゴムをかんでいるかのようになる。

生きているのか、どこに自分が立っているのかも、止まれないから、わからない、だけど、止まれない…みたいな。

前もここで何度か書いたことがあるけれど、そのたびに、いつも、グリム童話の残酷な、赤い靴をはいて踊り続けることが止まらなくなって、最後には足を切断されてしまう女の子の話を思い出してしまう。

ああ、自分と同じだな、と。

なにごとも、加減が大事。

そんな、おじさんみたいなつまんない教訓をここで言いたいわけじゃないのだけど、言ってしまえば、そういうことなのだろうか。どうなのだろうか。わからないけど、とりあえず書き進めてみよう。

自分は、好きなことをすると、自分でその深い森に入りすぎてしまう。

そうすると、どんどん人が疎ましくなってしまうし、外界すべてがうとましくなってきてしまう。邪魔にしか見えなくなる。

チューニングがまったく合わなくなってしまう。

だけど、いつも、そんなふうに、自分のペースで呼吸できる、深い森のなかのような場所が必要だと思う。

それが足りなくなるとわたしは、渇望する。

あとは、湖の水面のようなしーんとした、静かなものをかかえていることも欠かせない。

静寂さ。

それを感じることが、誰かにとって、ずっと捨てられないきたないけどその肌触りがなにものにも代え難いくまのぬいぐるみだったり、毛布にくるまれて安心する感覚だったりと同じように、わたしは、しーんとしたものに、安心を感じる。

だけど、その世界は、いつも諸刃の刃で、自分ひとりで自由に駆け回れるからこそ、際限がない。

際限がなく駆け回りすぎて、ある日、パタっと、電池切れする。

それで思う。適度に「おーい」と呼び戻してくれる存在。

軽く「おーい」と呼ばれたくらいでは、わたしは呼ばれていることにすら気づけないから、拘束力はありながらも、自分からも進んで行くことができるような、そんな存在が理想だ。

だけど、しょっちゅう呼び戻されたり、なかなか解放してもらえなかったり、呼び戻される世界があまりにもみにくすぎて、自分のなかに抱えている大切な世界の存在にすら、思い出せなくなってしまうくらい、心がすさんでしまうエピソードを繰り返してしまうことも、わたしは怖い。

ことしも、新しい外の世界に、わたしは数えられないくらいたくさん、何度も出たり入ったりしながらも、飛び出していった。

だけど、たびかさなる「外の世界不信」の連続で、11月末くらいからは、ほとんど内側の世界に引きこもって、自分を守りながら暮らしていた。

だけど、もう何度目かになるかわからない、雪山登山でのビバークみたいなことをしながら気づいたのは、外の世界に出てたとしても、内側の世界を守るために好きなことを思う存分にしたとしても、自分はなんでも徹底的にのめりこまないと気がすまないということ。

人がそんな重く考えなくてもいいのにというところで、ずいぶん深刻に、重く考えて、気がすむまで考え続けてしまって止まらない。

些細なことに気づいたら、もうそれをどうにかしなければ前に進めない。

あんなひどいことされてもうかかわる義理すらないやつと誰からも言われていて、自分でさえもうかかわらないと決めているのに、いざお願いされると、しょうがないなあ、これが最後だよとひょいひょいなんでも引き受けてしまって、あきらかにエネルギーの無駄遣いをしてしまうこと。

そんなような自分を見つめながら、やはりそのときどきで、それらの反省点を踏まえて、これからのことを考えてみたのだった。

こんな優柔不断なタイプの自分が守れるかなんてわからないけれど、自分のなかで、どうしてもこれは拘束されてもしかたがないというものをなかば強制的に作って、諦めてしまう。

言い方を変えれば、「守るもの」をなかばルール的に作ってしまうということ。

それは、さいきん読んだ作家の吉本ばななさんのエッセイを読んでいて、印象に残っているところでもある。

いま本が手元にないからうろ覚えだけど、<子どものいない人は傷ついてしまうから、ここのくだりは読まないほうがいい>とことわりをいれたうえで、吉本ばななさんが、もやもやっとしたかんじでわかりにくく、だけど、それがいまの自分にとって、とてもわかりやすいかたちで、入っていったのだった。

吉本ばななさんいわく、<子どもが生まれたとたん、自分のことがなんにもできなくなる>としたうえで、だけど、<子どもがいない人のほうが、もっと大変だ>、というのだ(わたしのイメージで解釈したものを言葉にしたので、原文とはちがっていいることをご了承ください)。

彼女は、子どももいることがいいとか悪い意味とかではなく、ただ、<子どもというのは、自分の人生を犠牲にする>、その象徴のようなものとして、語っている。

それで、<子どもがいなかったら、子どもに注ぐのと同じかそれ以上に、やはり人は、なにかにものすごくのめりこまなきゃいけなくて、そっちのほうが、むしろ自分だったら大変だと思う>と言っている(そこまで言ってなかったかもしれないけど、そんなようなふうにわたしの頭のなかに焼き付いている)。

どういうことかというと、子どもがいないから楽、とは全然ならなくて、これは、人間死ぬ瞬間カルマがプラマイゼロなスピリチュアルなはなしとも共通する部分があるかもしれないけど、結局はなにを選んだって、帳尻があうのだという、簡単にいってしまえば、そういうことなのかもしれない。

そういう話をしたら、そりゃ自由を手を入れた分、責任があるし、って、「バランス」とか「帳尻」っていってしまったら、それだけの話なのだけど、そこでわたしは、彼女のエッセイを読みながら、帳尻とかそういうテクニカル的なところではない、サイキックなところで通じる、じーんとした懐かしい、じわっとあたたまっていくような感覚をおぼえたのだ。

だからそうやって、そのくだりがとくに印象に残っているのかもしれないな。

それは、わたしのこれまでの人生のなかでも、時間や自由がありあまりすぎてしまうと、本来、そこまでやらなくてもいいのにということが、わからなくなっていったのだった。

そういうときにかぎって、普段だったらそこまで考えすぎないことを考えすぎて、たとえば、ヒプノセラピーという催眠療法に高額なお金を注ぎ込んでインナーチャイルドを抱きしめにいってしまうとか、普段だったら引き込まれないような世界に引き寄せられて、そこで、タイプの人でもないのに、時間もたっぷりあるからと、人の好意をいつも以上にグローバルに受け取って、最後は犯罪に巻き込まれて、あとあととても高くついてしまうとか…。

振り返ってみれば、普通に外と内の世界をバランスよく行き来すれば目にも止まらないような、見えない世界のものに、ずんずん引き込まれていった、自分が引き寄せてしまった結果でしかない。

内側の世界に入って自由にいられればいられるほど、もちろん「外」の社会も誘惑やリスクはたくさんあるけれど、どこまでも深く極められる分、誘惑の世界もたくさん海の底に眠って広がっている。

まとめると、自由と責任の話といえばそうなのだけど、自分風に言うと、なにか、そこだけはもう、言い方はアレだけど、犠牲にしてしまったり、奪われてもしょうがないなというものを作るというか、いや、作りなさいという話ではなくて、作らなければ作らないで、別のところで苦労するし、苦労するというよりか、結果的にはなんらかのものを、意図しようがしまいが作っているよ、ということに、最近はいろいろ考えさせられることがあるなあという話でした。

だから、これからこうしようとか、ビジネス本的なライフハックをわたしは身につけた、失敗や反省から教訓を生み出した、というわけではなくて、なんだか、じーんとしんみり沁みてきた、そういう感覚をさいきん味わったよ、ということでした。

そう考えたとき、たぶんわたしは、なにをやっても、どこに行っても、てこずっているんだろうし、そういうふうに考えると、いま自分が、内の世界にいようが、外にまた飛び出そうが、どーんと構えていられるようで、落ち着くのでした。

だから、大丈夫なのでした。

なんかまたごはんに味がしてきそうな気がしてきた。

ちゃんちゃん。


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