見出し画像

【近況】一から十まで説明しなくていいことに気づく/わたしの「表現」について

おひさしぶりです。

さいきんは更新が滞っておりまして、いろいろたくさんなことがありました。

たぶんぜんぶはとうてい書ききれなくて、でもさいきん、わたしはなにからなにまで一から十まで詳細に説明できないと気が済まない人なんだなということに気づいたんですよね。

それで、なんの義務感かわからないのだけれど、けっこういろんな場所で一から十までめちゃくちゃ丁寧に詳細にわたっていろんな人に説明してきたのだけど、あるときふと、これ、なんのボランティアなんだろう、って気づきました。

なんのために、この人にそんなに情報を丁寧に教えてあげているんだろう、ってわからなくなることがありました。

だけど、一から十まで説明しないと気が済まないというがんこな自分が、それを許してくれなくて。

一方で、こんなことにもさいきん気づきました。

別に人は、一から十まで説明しなくてもいいんだよ、ということです。

これは大発見でしたね。目からうろこが落ちました。

もちろん、一から十まで説明することが必要な場面もあるでしょう。信頼するキーパーソンには、それを共有しておいたほうがいいこともあるでしょう。

そういう必要とされている場面はいいんです。

でも、そうじゃない場面では、別に、誰彼かまわず、その人が理解できるまで、一から十まで、その人に合った説明方法で、ばか丁寧に教えてあげる必要なんてないんだ、という当たり前だけれど、なかなか自分では気づけないことに、さいきん、気づいたのです。

それまでは、ああ、めんどくさいなあとか、別にこの人に情報を教えたところで、わたしにはなんのメリットもないけど、知りたがってるし、教えなきゃいけないんだろうな、教えないとやな顔されるんだろうな、いやな人だと思われることで逆恨みされたり不利益被ったりしたくないな、とか自分なりに計算した結果、

本音としては、相手が気持ち悪かろうが、自己開示したいなんて気持ちはまったくなくて、むしろ心がぎゅっと閉じているにもかかわらず、自分の自然体に逆らって、それでも伝えないと伝えろと暗に脅迫されているようなかんじがしてきて、言いたくない人や苦手な人や圧をかけられている人に限って、必要以上にたくさんの情報を与えてしまっていたりしました。

そうやって、「情報」というものを、言葉だけでなく、態度やその人が身にまとうオーラによって、わたしは暗に「恫喝」(と言ってもいい)されていたこともありました。

そんな名残がいまもあったのだと思います。

やはり、伝えないことに、後ろめたさを感じてしまう。そういう後ろめたさを感じてしまう相手にかぎって、モラハラマンだったり、苦手な相手だったり、すでに対等ではない相手だったりしました。

だけど、そういった「恫喝」が当たり前な環境から、より安全なほうへ、安全なほうへ、自分なりに逃げていまにいたった結果、

別に、話したくない人にはなにも話さなければいいし(話したくないな、心を開きたくないなという人にかぎって、その後ろめたさから無駄にしゃべってしまっていた)、

ましてや一から十まで丁寧に説明する必要もないって当たり前なことに、気づきました。

一から十まで丁寧に詳細に説明しないとなぜか気が済まない、という特性はいまもあるのだけど、

対等にかかわってくれる相手は、別にそんなに説明してくれなくていいよ、ってちゃんと言ってくれるし、わたしが負担に感じることがないように尊重してくれる。

もしくは、わたしがそれでもいま吐き出したいからしゃべらせて、というときは、さえぎらずにただ、耳を傾けてくれる人だったりする。

でも、わたしに負担をかけて、なにかいやなことを思い出させるために、苦しい思いをさせてまで、過呼吸になったり、その後寝込んでしまったり、そういったことはおかまいなしな人は、

自分の利益だけ考えて、情報だけぱくって、その情報をどう使うかとかいうこともいわずに、どろぼうみたいに、詐欺集団みたいに、平気で人のもの奪って、かっさらって、自分のもうけだったり、欲望を満たそうとする。

そんな違いを、客観的に見つめられるようになってきた。

そういう人って、いるんだな、って。ずっと昔から、そういう人はそういう人で、いるんだよ、って。

というような気づきがあって、どういうときに、人に「情報」というものを知らせるのかとか、SNSとの距離とか、こういうネットでコンテンツを書くということについて、自分はどこまでそういうことをしたいのかな、ということが、ちょっとわからなくなってしまっていた。

それで自分は、ネットでなにかを発信するときは、人に有益な情報を与えたいとか、「コンテンツ」作りをしたいとかいう気持ちがまったくなくて(ネットでわたしはなにをやりたいんだろうということもすごく考えた)、ただ「表現」の一環としてやりたいんだ、ということもわかった。

だけど、自分が「表現」の一環としてやっていることも、ネットの活用方法は人それぞれであって、そのなかで、個人情報という点で、いいように利用されてしまうリスクとか、このご時世はなおさら考えさせられて、

実はいったん、これまで書いたものとか、全部下書きにしちゃおうかなと、その間思って試みたりもした。

だけど有料マガジンとかは、そういう操作が一切できなかったりめんどくさくて、そのまま残すことにした。

でも、基本自分は、いつでもまっさらで、ゼロでいたいという気持ちがあるから、断捨離やミニマルな思考や暮らしもそういう気持ちでやってるから、それに逆行しているかんじで、すごく気持ち悪かったりもするのだけど、

それ以上の解決策がないから、いまはとりあえずそのまま放置。

基本、いま考えていることは、その「いま」を過ぎたらもう過去だけど、世の中的には、あのときこう言ってた、みたいなバイアスがかけられることを許してしまうことが、めんどくさかったり、いまを生きれなくなるから、足枷にしかならないのだけれど。

「表現」について考えたこととしては、わたしは、いつもこれはずっと思っているのだけれど、表現をするにあたって、「書く」ということは表現における手段のひとつにしかまったく思えていないということもある。

「書く」こと抜きには生きられないという人や、息をするように書いている、という人の話を聞くと、自分はまったく書くことだけにはこだわりがない人なんだなというふうに思えてしまう。

日々、生きていること、こうやっていまもここで生きていることも「表現」だし、体現していると思うし、

「書く」という、ここで机に座って、パソコンを打っている状態でしか作り出せない「わたし」だけが、わたしの表現だなんて思ってほしくないし、そんなのじゃ息苦しいし、

なんなら24時間365日、365度から、その体現を見てほしいという気持ちがある。

だけど、それは現実的に不可能だし、無理があるし、シチュエーションや期間限定みたいな「表現」には、わたしは興味を持てないから、諦めたところで生きるとなると、

冒頭の「更新が滞った」というところにあるけれど、ここで更新するという優先順位も、おのずと上ではないことは想像するのは簡単だし、これがわたしの表現手段なんて思わないし、

だけどわたしはずっと表現してるし、それは「生きる」ということをずっとこうやって体現しているよ、ってことなのです。

その「体現」は誰にも見てもらえないけれど、現実不可能だからこそ、ほどほどの諦めを見出した折り合いで、やりたいことは手当たり次第やっている、そんな日々なのであります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?