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悩み抜いた末の体裁 結婚式の親へのメッセージは拷問だった

結婚式。
それは、結婚を報告するとともに、お世話になった方への感謝の意を表す場所である。


私も、割とオーソドックスな結婚式と披露宴をした一人だ。
テンプレート通りの結婚式では、避けて通れないものがある。


それは、親へのメッセージ。


新郎からのメッセージは無いこともあるのに、なぜ、花嫁からのメッセージは欠かせないのか。
私の場合も例に漏れず、花嫁からのメッセージの時間が取られた。


私自信はやりたくなかった。
なぜなら、親に感謝する気持ちなど、ほとんど無かったのだから。


こんなことを書くと、非情な娘だと思われるかもしれない。
しかし、しょうがない。
それが本心だったのだから。


司会進行を友人に頼んだ。
だから、親へのメッセージはやりたくないと言うことが出来なかった。
言ったらそれこそ友人を失いかねない。


文書を書くのはそこまで苦手ではなかったので、ひとまずメッセージ自体は書ける。
それなりに感動出来るメッセージにすることが出来たであろう。
そこに私の感情は含まれてはいなかったが。


ただ、問題なのは、読み上げることだ。
心にもない感謝の言葉を、大勢の来賓者の前で読まなくてはいけない。
そこにはどうしても感情が含まれてしまう。


当時の私の親に対する主な感情は、『恨み』だ。
披露宴という、ハレの日にはふさわしくない感情であることは私もわかっていた。
感情が伴うと、どうしてもいやいやながら読んでいるように聞こえる。


実際、いやいやながらだったのだから仕方がないが、対外的な体裁もある。
だから、何とかしてその感情を封じ込めようと努力した。


メッセージを作り終えたあと、何度も何度も読む練習をした。
まるで小学生が宿題で音読をするように何度も何度も。


披露宴が差し迫った頃には、その声を録音して確認した。
恨みが表面化してはいないかと。


練習の甲斐があり、披露宴で無事にメッセージを読むことができた。
自分たちの昔のことではなく、他人のエピソードにすり替えて感謝の言葉としたのも読みやすくなった理由だろう。


滞りなく済んだので、心底安堵したのを覚えている。
ただ、後日友人に言われたのは、読み上げが淡白すぎたということ。
もっと感動的に涙を交えて読んでほしかったと。


親に感謝の気持ちなど無いのだから、そりゃ、感動は足りなかったであろう。
でも、私からしたら、感情的にならず最後まで読み上げることが出来たのだから、上出来だったと思う。


メッセージを受け取った親はどうだったかと言うと、それについてはあまり覚えていない。
私自身が終わってホッとしていたというのもあるが、つまりそれは、印象に残るほどのアクションを起こしていなかったということでもある。


私は三姉妹であるが、披露宴を挙げたのは私一人だ。
花嫁の父及び母を経験したのは、そのときだけだったというのに、大したリアクションも取らない両親。


きっと、私の披露宴に何の思い入れもないのであろう。



ここまで一生懸命育ててきて良かったななどとは思わないものなんだろうか。
親となった私は今、不思議でたまらない。


これは後日聞いたことだが、あのメッセージにいたく感動した人がいた。
それは私の姉だ。



あんな淡白なメッセージでなぜと思ったが、もしかしたら、長女として、結婚しなければというプレッシャーがあったのかもしれない。
それから解放してくれたわけだから、感動もひとしおだっただろう。


良い家族関係を築いてきた人たちにとって、披露宴の親へのメッセージはとても素晴らしいイベントになることだろう。
私のように、親との関係が微妙な場合、それは拷問に近しい行為だ。


何日も前からメッセージを考えた。
完全に嘘にする訳にはいかないし、本当のことを書くわけにもいかない。
他人事を自分事にすり替えて書き連ねる。
しかも、家族はもちろん、来賓者にもそれがばれてはいけない。


母親とならまだしも、父親とのエピソードなど、人に語れるようなものは何もない。
そんな中絞り出したあのメッセージ。


もし、将来、自分の子どもに披露宴をしてほしいと願うなら、人に披露出来る良いエピソードの2つか3つは親のほうが用意しておいたほうが良い。
私のように、我が子が困ることがないように。



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